すべてのイスラエルの教師であり、主のために聖別されたレビ人に、王はこう言った。
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。
あなたたちはもはやそれを担う必要がない。あなたたちの神、主とその民イスラエルに奉仕せよ。」
- 歴代誌下 35:3
1. アークとは?
アークとは約3000年前、シナイ山でモーゼが神から授けられた十戒を刻んだ2枚の石板をしまった箱。サイズは112×68×68cm。アカシヤで造られ、金箔で内側、外側を覆われている。
アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。紀元前970年〜のソロモン王の統治下、エルサレムに神殿を造り、至聖所と呼ばれる内陣にアークを納めた。旧約聖書によると1年に1回、祭司たちが外にアークを運び出した。しかし紀元前900年以降突然消えた。
- 出エジプト記 25:10-22
ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、主の箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。旧約聖書の中で、最後のアークに関する言及はヒゼキヤ王の統治下であった。バビロン補囚後、ゼルバベルによって寺院は再建され、動物の生け贄が再び行われるようになった。しかし聖書は、アークの運命に関し沈黙している。
- 列王記上歴 8:1-9
ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、 主の前で祈った。 「ケルビム(訳注:アーク)の上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。」これ以降、契約の箱(アーク)は旧約聖書中に言及されることはなくなり、消えてしまった。
- イザヤ書 37:14-16
2. どこに消えた?
2.1 エジプト王シシャクの略奪説
紀元前10世紀のエジプトの王シシャクが持って帰って、現在はタニスにある。しかし現在までのところ、エジプトでは発見されていない。また、シシャクの軍はエルサレムに侵入しなかったという説がある。
エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上り、主の神殿と王宮の宝物を奪い取った。彼はすべてを奪い、ソロモンが作った金の盾も奪い取った。
- 歴代誌下 12:9
BC926、シェションク1世(シシャク)がエルサレムを攻略したときに持ち去られている。
カルナックに残されているシェションクの碑文にはその遠征におけるルートがレリーフとして残されているが、それは二手に分かれている。 一方はエルサレムから北方への進軍。 もう一方は実はガザから南下しているのであるが、その途中にエルサレムを攻略した軍隊よりアークが届けられている。 南下したシェションクの軍隊は、ソロモンの隊商ルートを破壊しながら、アカバに向かい、エチオンゲベルでアーク輸送のためにフェニキヤの船を強奪して、 航海を経てエジプトに帰還している。シェションク自身はナイルデルタ経由で帰国しており、この船の輸送はまさにその陰で秘密裏に進められていた。 その後、ブバスティスに移送され、王宮に置かれていたが、やがて23王朝に転覆されて、アークは略奪、溶解、別物に。 しかし、一説にはリビア人のシェションクの末裔たちがエチオピアまで運んだとも。 (2ch) |
ファラオはエルサレムを包囲はしたが、実際に入城することはなかった。その代わり、彼はソロモン寺院の財宝を差し出させた。これらの財宝はヤハウェに民や王が捧げた物からなっていた。そのような物品は通常、貴重な銀や金製品であり、至聖所ではなく、寺院の外側の構内にある特別な宝庫であり、それは旧約聖書に常に記されている、王の家の宝庫のことであろう。
- Graham Hancock, The Sign and the Seal
これらの財宝はしばしば外国からの侵略者や王自身が資金を必要としたときのために使われた。財宝庫は常に、満杯と空っぽの状態を揺れ動いていた。したがって、シシャクの侵略は至聖所とは何の関係もなく、アークの消滅と結びつけることは完全な間違いである。
- Menahem Haran, Temples and Temple Service in Ancient Israel
(1978)
2.2 祭司たちによる隠匿
・緊急事態(侵略など)が起こったときに、祭司たちがアークをどこか(エルサレムの地下など)に隠した。
預言者[エレミア]は彼に与えられた託宣(注:ソロモン寺院の破壊が差し迫っているという内容)に従って、幕屋と契約の箱を携えて山へ出かけたという。モーセが神から約束の地を示された所である。そこに到着したエレミヤは、人の住むことのできる洞穴を見つけ、そこに幕屋と契約の箱と香壇を運び込み、入り口をふさいだ。一行の中の何人かが、道標を作ろうとして戻ってみたが、もはや洞穴を見つけることはできなかった。このことを知ったエレミヤは、彼らを叱責してこう言った。『神が民の集会を召集し、憐れみを下されるときまで、その場所は知られずにいるだろう。そのときになれば、主はそこに運び入れたものを再び示してくださり、主の栄光が雲とともに現れるだろう。モーセに現れたように、また、ソロモンが神殿の聖別式を厳かに行ったとき現れたように。それはモーセが彼の死の前に、約束の地と考えていた山の洞窟の中に隠され、入り口は閉じられた。後にエレミアの仲間がこの洞窟を訪ねようとしたが、洞窟の場所は分からなくなっていた。
- マカバイ記二 2:4-8(紀元前100年-紀元前70年の間に書かれた)
・マナセ王の時代、王が至聖所内に異教の像を祀ったため、神への冒涜と恐れた祭司たちがアークを運び出した。
イマニュエル・ヴェリコフスキーによると、エルサレムのテンプルには真鍮性の蛇があって、それはヒゼキア王が打ち壊した。蛇はフェニキア、カルタゴの神であった。
ヒゼキア王(紀元前725年頃):マナセ王は、父ヒゼキヤ王の壊した祭壇をまた作り、アシェラ像を作り、主の神殿の中に異教の神の祭壇を作った。
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。
- 列王記下 18:4
マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。彼は主がイスラエル人の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼は父ヒゼキヤが取り壊した聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた。主はかつて、「エルサレムにわたしの名をとこしえにとどめる」と言われたが、その主の神殿の中に彼は異教の祭壇を築いた。2.3 バビロン補囚
- 歴代誌下 33:1-4
そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。ネブカドネザルが奪った戦利品には以下のものが含まれる。
- 列王記下 24:10-14
ソロモンは主の神殿に置くためのあらゆる祭具を作った――金の祭壇、供えのパンを載せる金の聖卓、内陣の前に左右に五つずつ置かれる純金の燭台、金の花、ともし火皿、火ばし、純金の皿、芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、また神殿の奥の間すなわち至聖所の扉と外陣の扉のための金のちょうつがい。当時のバビロニア人たちにとって、征服地の人々の一番の偶像または崇拝物を奪い、彼らの神であるマルドゥックの像の置かれたバビロニアの神殿に持ち帰ることは当然のことであった。そしてアークは当然その第一の候補となったであろう。しかしその黄金を剥ぐことも、触れることもしなかった。それについても、ケルビム(天使)についても全く触れられていない。
- 列王記上 7:48-50
学者たちの意見によると、エルサレムは586年または587年の夏に陥落した。この時、ネブカドネザルは慈悲の心を持っていなかった。街は徹底的に焼き尽くされた。壁は崩壊し、塔の土台の跡だけが残された。そして寺院と、契約の箱は奪われ、完全に破壊された。
- Magnus Magnusson, BC - The Archaeology of the Bible Lands
第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。2.4 実はまだエルサレムにある
- 列王記下 25:8-16
2.5 中世、テンプル騎士団が発見
テンプル騎士団は神殿の丘の下に洞窟を掘り何かを発掘していた。騎士団はアークを探していた。
その後ヨーロッパに戻ったテンプル騎士団は、王をも凌ぐ富と権力を手に入れた。
2.6 グラハム・ハンコックのエチオピア説
1989年、グラハムハンコックの著書『神の刻印』で発表。それによると1000年以上前からエチオピアのマリアシオン聖堂に納められている。
列王記によると、シバの女王が、ソロモン統治下のエルサレムを訪問。そのとき、女王はソロモンに誘惑された。
ソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。生まれたメネリクは数年後エルサレムを訪問するが、エチオピアに戻るときにアークを持ち帰った。
- 列王記上 10:13
ほとんどの学者たちは、ハンコックの『The Sign and the Seal』を酷評している。Ephraim
Isaacは「彼の言語的知識の欠如、専門的知識の浅い理解が彼を早急で、しかし興味深い結論に導いている。皮肉にも彼の学者として必要なものの欠落が、ハンコックに独創的な説を作らせている」と言っている。
- John Watton
アークが消えた正確な時期は?ハンコックによる聖書のコンピュータ検索によると、紀元前701年には、アークがまだ存在するが、紀元前626年には消えてしまっている。
紀元前650年頃。
↓ エレファンティネ島。 ↓ ナイル川をさかのぼり、タナ湖(タナキルコス島)へ |
あなたたちがこの地で大いに増えるとき、その日には、と主は言われる。人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない。この一節の後には慰めの言葉が続く。ここで預言者が約束したことは、そこに良い日が訪れたとき、人々はもはやアークを必要としないだろうということだ。つまりその消失は、悲しみの原因とはならないと言っている。もちろん、その時アークが寺院の中に存在したのなら、これらの言葉はどんな意味もなくなってしまう。
- エレミヤ書 3:16(紀元前626年頃、エレミア自身による言葉)
2.7 近代の発掘
1909年-11年、イギリス人モンタギュー・パーカーのエルサレム発掘。オスマン帝国に賄賂を送り、岩のドームに入り、聖なる岩の下に穴を掘る許可をもらった。
この調査がばれ、エルサレムは大混乱になった。
2.8 米軍隠匿説
アメリカ陸軍対敵諜報情報部(CIC)が、ベルリン陥落後ソ連の支配が強まりつつある中、旧ナチス陸軍将校の供述からある物を郊外のヴェルンスドルフからアメリカ本国へ空輸したという話を聞いた事がある。
その話は確か戦後、イスラエルの情報機関「アマン」や「モサド」の文書の一部が情報公開法で明るみにでた奴だよね。
米国のCIAだかに引渡しの要求文書に書かれていた、その根拠になった情報が、ヴェルンスドルフ輸送作戦だったはず。
空輸だけでなく、マルセイユから海路ではなかったか?
現在、とあるアメリカ軍の倉庫に保管されている。
(2ch)
2.9 アークと御神輿の類似点
ちなみにアークは日本の神輿そっくり。当時も二本の棒を通して幕屋から幕屋へ移動していた。幕屋とは簡易的な神殿。日本での神社がそれにあたる。
(2ch)
※2chとあるのは、2ch掲示板よりの情報出典です。
※聖書の出典は日本聖書協会、新共同訳から引用しました。
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