Voynich Manuscript の歴史(その2)

ここではマッケナの The Archaic Revival に沿ってまとめました。
彼の説はかなり斬新なものではありますが、根拠のないものであったり、空白を補う形で想像が入っています。年代にもどうしても矛盾が見られます。その点をご了解の上、ご覧ください。

1540年代

ヴォイニッチ手稿は書かれた。
(しかしケリーによって書かれたのなら、時代はもう少し後、1580年代になろう。)

1582年−1586年

ジョン・ディーはプラハに滞在。
もしも本当にロジャー・ベーコンによるものならばこのとき英国から持ち出したと考えられる。
ディーとケリーはロジャー・ベーコンの錬金術の粉についての話を皇帝ルドルフにした。

1586年

ディーとケリー、またはその近くの人々が皇帝ルドルフに300ダカット(注:これは明らかに630ダガットの誤りだと思うのですが・・・)で売却。

1608年

ジョン・ディー死去。

薔薇十字団との関係もある。ディーの後継者ロバート・フラッド (Robert Fludd) にも注意。しかしヴォイニッチ手稿の製作年代はそれ以前のことだろう。

1612年

Rudolph U of Bohemia 死去。
死後は、植物園の管理者 Marceci (注:誰だ?何かの間違いか。)に渡った。
彼はその後20年にわたってヴォイニッチ手稿を所持。

その後の20年間

分からないグループが所持

1620年代

アタナシウス・キルヒャーの手に渡る。
(彼は実際に一時期ヴォイニッチ手稿を所持していたはずだが、日記には何も記されてはいない。)
キルヒャーがヴォイニッチ手稿を入手してから(何年のことかマッケンナは書いてはいない)5年後、彼は"A Universal Study of Artificial Language"(Polygraphia nova et universalis のこと)を出版するもヴォイニッチ手稿には一切触れられてはいない。

1660年

1660年キルヒャーがイエズス会士になるときに本を全て Jesuit seminary south of Rome に寄贈した。

その後の250年間

Jesuit seminary の棚にあった。

1912年

ニューヨークの古本商ヴォイニッチさんが図書館のすべてを買い取った。
(また後ほど別の場所で触れようと思うが、ここの部分もかなり怪しい。)
彼はニューヨークに戻りヴォイニッチ手稿を発見。


Back