Voynich Manuscript の歴史(その3)

はじめに(訳者から)

この部分は基本的に“The Voynich Manuscript-By Voynich?” By Michael Barlow (Cryptologia 10(4): 210-216) に沿ってまとめたものです。できるだけ原文を改変しないように忠実に訳したつもりです。そのほか特に出典が記載されている部分はそこからの引用です。なおヴォイニッチ手稿を発見したヴォイニッチさんも翻訳ではヴォイニッチとしましたのでマニュスクリプトと発見した人物との区別がわかりにくくなっていますが、マニュスクリプトはヴォイニッチ手稿、人物はヴォイニッチと訳しましたので、その点に留意していただければ混乱なく大丈夫だと思います。なおこの論文には様々な人から反論の論文が寄せられており、基本的に僕もこの説には反対する立場をとってはいますが、ヴォイニッチ手稿の理解を深めるためあえて掲載しました。その点をご理解の上、読み進めていただければと思います。

それではここから、物語は始まります。

Ms. D'Imprio はその著書『The Voynich Manuscript − An Elegant Enigma』の中でこう結論づけた。

(a)答えは何も得られていない。
(b)もっと詳しい調査が必要である。

そしてその徹底的な調査にもかかわらず:

これらの謎はヴォイニッチ本人によって作られたものではないのか?
それではいくつかの可能性を検証してみよう。

ルドルフ朝時代

我々がルドルフ朝を見たとき年代に矛盾が生じる。D'Imperio はマルカス・マルチがルドルフのオフィシャルな医者であったとした。しかし年代を照らし合わせてみるとルドルフの死亡したとき、彼はまだ16歳であった。そんな若造がルドルフのオフィシャルの医師?それに一部消された署名 Jacobus Horcicky de Tepenecz 。マルチもテッペンスもヴォイニッチ氏によって名づけられた。二人は実在の人物である。年代(の矛盾)は単純な間違いであるにせよ、(ヴォイニッチ手稿の)製作年代と1912年の間には、1608年から1622年を示すような薄れた署名が残るだけであり、全く信頼はおけない。歴史上でこんなにも不明瞭な痕跡を見たことがない。(1)

1912年

ヴォイニッチ手稿はヴォイニッチによって1912年に買われたことが分かっている。彼はこれにかなりの額を使ったに違いない。そしてこれに際しトラブルもあったはずだ。彼はその類似性のない、醜い、異常性に気づいたはずだ。もしかしたら評判のよい古書商が(それを買ってから)1921年まで開かなかったのかもしれない。驚くべきことは、彼がたった一つの年代1665年を見落としたことだ。いや、どんなに理由があるにせよ時間とお金ををかけて、トラブルにも見舞われ、102ページものナンセンスと、手紙を後になって急ぎちらっと見ただけなんてことがあろうか。

なぜキリスト会士はこれを売りたかったのだろうか?1620年にその図書館はバチカンに寄贈されたことになっている。バチカンはある見知らぬ人への売却に同意したのだろうか。私たちはヴォイニッチがどのようにマニュスクリプトの存在を知ったのか語られてはいない。しかし D'Imperio によると購入はヴォイニッチによって行われるように、更なる購入者が現れないように秘密裏に行われたようだ。秘密裏にとは?いったい誰によって?バチカン?それになぜもっと高額の購入者を探さなかったのか。他の古書商はこの申し出を誰一人聞かなかったのか。さもなければこれはヴォイニッチによるヴォイニッチ手稿のすぐ前の出所を見えなくする巧妙な方法なのか。本当にモンドラゴーネ寺院にあったマニュスクリプトはヴォイニッチ手稿と同一のものであるのだろうか。

ヴォイニッチはこれ(1912年)以前は1665年からの247年間は寺院の図書館にあったとした。しかし驚くべきことに期待するような解読しようとした人々の走り書きなどは見当たらない。もし誰かがこの書を扱ったのならたくさんの(その人たちの)サインがページのどこかにたくさん見つかるはずである。この点からある人はこのマニュスクリプトが247年間静かに眠っていたことを怪しんでいる。
 

1963年、私たちはローマのバチカン図書館にMonsignor Jos Ruysschaertを訪ねた。私は彼がモンドラゴーネ図書館2)のカタログを出版したのを知っていた。そして私は彼から暗号マニュスクリプト(ヴォイニッチ手稿のこと)についてもっと聞きたいと思っていた。驚いたことに彼は未だにそれが図書館にあると思っていた。私は彼に「私に見せてくれないか?」とお願いをした。「Yes,」と彼は答えて書庫へ向かった。すぐに彼は手ぶらで戻ってきた。私は彼にその古写本を所有していたこと、そしてどのように私の元に渡ってきたかを話さなければならなかった。

どのように制作した?

極端な例としてウィルフレッド・ヴォイニッチが制作のアイディアを出し、ニューボルドが試みたと仮定しよう。(付属の)手紙は本物であるとして − そうするとマニュスクリプトについては納得のいくものとなる。ヴォイニッチはマニュスクリプトを入手して初めて1665年の日付のある文書(document)を読んだと言っている。皮肉を込めてもう一度、この声明を文字通りとってみよう。彼は手紙(letter)とは言わずに文書(document)と言った。彼の推測的なマニュスクリプトをロジャー・ベーコンに帰することは全く芝居掛かった確証でしかなく、このことが D'Imperio の言うこの幸運な発見が人々にペンで書き加えたものではないかという疑問を抱かせている。

Dr. Albert Carter は多大な時間と費用をかけたこと、そして素晴らしい質の羊皮紙の調査からでっち上げられたはずはないとした。しかし古本商ならば質のよい羊皮紙を手にいれることは容易であり、イエズス会図書館に270年間あった古いものである可能性すらある。

模写のテクニックで暗号研究家たちを悩ませる繰り返しが説明がつく。この退屈な作業は言われているように二人の手によって行われたのであろう。2番目の作者に何が起こったかは推測がつく。多分これがニューボールドの演説(2)と(ヴォイニッチによる)購入(3)の9年間の差なのだろう。

D'Imperio が強調している点は:Voynich Manuscript に似た文書が一つも発見されてはいないということ。
Dr. Carter によると一つのインクが現在の赤インクと良く似ているということだ。そしてインクや紙の科学的な調査はなされていない。

13ページの絵はヒルデガルド(4)(事実ヴォイニッチは知っていた)のものと似ている。

1904年にはヴォイニッチにマニュスクリプト製作のアイディアを与えたであろう、ジョン・ディーの書 "hieroglyphicks" が Fell Smith によって出版された。

もしヴォイニッチが Caius College にあるような絵や、星雲、ストーンヘンジのような絵を必要としていた場合にはたとえ1912年であったとしても百科事典で入手可能であった。

結論として

仮説には二点難点がある。1つ目はマルチの手紙の作者だ。もし手紙が偽造だった場合それはマニュスクリプトそれ自体のでっちあげよりもたちが悪い。私は完全な偽造ではなくて、手紙を発見したことでヴォイニッチがマニュスクリプトをでっちあげるアイデアを思いついたと考えている。 2つ目はでっちあげの結果だ。おそらくヴォイニッチは秘密に楽しむつもりであったのだろうが、失敗は同僚たちがマニュスクリプトの秘密を暴いてしまったことだ。銀行に預けた手紙の存在を考える人たちもいる。死後開けられ、全てのことが説明されている。おそらくそんな手紙は存在するのであろう。しかしそれは100年といった長い期間の後のことであろう。それはニューボールドの名声を傷つけないためでもある。期待もしていなかった現在のマニュスクリプトの(莫大な)価値からしても、不本意ながらでっちあげを認めても良いのではないか?

おそらくいつの日かピルトダウン人のように暴かれる日が来るであろう。


訳注

(1)つまり彼は、たったこれだけしか証拠はないのかと、皮肉を込めて問題提示をしているものです。

(2)Mondoragone Library

(3)1921年に解読したと学会で発表した。

(4)もちろん1912年のこと。

(4)Hildegard von Bingen.英語名は Hildegard of Bengen.(1098〜1179)中世ドイツのベネディクト会修道女。神秘家。


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