テープ起こしに関して:録音は会議用のものを使っただけですので、録音は状態があまり良くないことと、僕の英語のヒアリングがあまり良くないため、不明なところがあります、ご了承下さい。
第一部 「The mystery of Rennes-le-Chateau」(110分)
急にお金持ちになった、レンヌ・ル・シャトー村の神父さんの話です。
ホセさんの講演→ディスカッションと続きました。
ホセさん:今日話す内容は二つあります。そして最初はレンヌ・ル・シャトーの話です。カタリ派と関係あるかは分かりません。とても奇妙なことが起こりました。いくつかの出来事が起こりました。奇妙な状況でです。それについて私はこれから話したいと思います。そして皆様にはそれについての興味深いコピーを用意してきました。えーと、すぐにもう少しの人がきますね。(5分待ち)
O.K.それでは始めましょう。私たちが今日話すのはミステリーについてです。それらは歴史的に不思議なミステリーであります。UFOやミステリーサークル(Crop Circle)、それに関係する愚かなことは話しません。私は私たちが知っているたくさんのことについて話しますが、しかし何が起こったのかは分かっていません。それが私がミステリーと呼ぶ理由です。予定では私が話をします。それについて説明します。その後誰でも話したい人がいれば、議論します。ではスピーチを聴いて下さい。誰でも興味を持てると思います。最初の一つは「レンヌ・ル・シャトーの謎」についてです。話の中でいくつかの資料を使います。そして何枚かの写真のコピーを配っておきました。初めに話すのはレンヌ・ル・シャトーについてです。レンヌ・ル・シャトーについては2枚のコピーを配ってあります。
What is a Rennes-le-Chateau? (レンヌ・ル・シャトーとは何?)
レンヌ・ル・シャトーとは南フランスにあるとても小さな村です。配った写真のNo.1に見える村がそうです。これがその村ですが、とても小さい。この小さな村で19世紀末に一連の奇妙な出来事が起こりました。レンヌ・ル・シャトー村では1885年頃に…、えーっと確かめるためにこの本(「Holy Blood, Holy Grail」のこと)を見ますね、1885年にこの小さなフランスの村に新しい教区司祭が赴任してきた。彼の名はベレンジャー・ソニエール(B駻enger Sauni鑽e)です。彼の写真があります。大きい紙の立っているこの男です。ソニエールは…
(新たに参加者が現れたので2, 3分中断。)
彼は典型的な村司祭で、つまり言いたいことは、その村はとても小さく、司祭はとても貧しい、つまり彼はお金をたくさん持ってはいなかった。1891年にソニエールはその村の古い教会を修理し始めた。そして彼は中が空洞になっている柱の中に木の筒に入っている4つの古文書があるのを発見した。書いてあるのは明らかに暗号であった。
彼はこれについて取り組み始めた。そして彼の上司に接触し、彼[上司]はすぐにソニエールを(暗号の)専門家に会わすためにパリへ派遣した。彼の名は…、ちょっと待って、今確認します、そう、アベ・ビエイル(Abbe
Bieil)であり、彼はパリの神学校を統轄する人物であり、また古文書、古文字の分野では重要な人物であった。そして一応文章は解読された。現在でも(暗号が解読される前の)元の文章と(解読された)後の文章が残っていますが、何を意味しているのか全くわかりません。
そしてこの暗号が解読された1891年からソニエールが死亡した1917年の間に興味深いことが起こりました。
多額のお金について話します。
(テレコの電池の入れ替えのため数十秒失われています。)
一千万ポンドのお金、彼はそのお金を使って教会、彼自身の家や、召使いのための家を建て直し、そしてヨーロッパ中の人たちとの交流のためにお金を使った。そしてこのお金がどこから入手したものなのか、誰にも分かっていません。ある人は彼が発見した文書は宝の地図であったと思いました。しかし彼が実際の物としての金や、宝石を発見したと考えない方がいいでしょう。つまり一千万ポンドというとても多額のお金は金やその他を発見したものとして換算すると、莫大な量になってしまうからです。だから何らかの情報という形で発見したと考えられます。
もうひとつ興味深いことは司祭[ソニエール]はたくさんの王族達と付き合い始めました。彼はVIPたちを彼の家に招待しました。例えばフランスの王族や、ハプスブルグ家の人たちです。
そして1916年にはとてもすごい人が訪問しました。ドイツのハプスブルグ家の人が彼を訪れました。ハプスブルグ家というのはドイツの王家と密接に関係しています。そしてこのハプスブルグ家の王子(ヨハン・フォン・ハプスブルグ大公,Archduke Johann von Hapsburg)が1916年にフランスにいるソニエールを訪問しました。これはとても重要なことです。その当時フランスとドイツは戦争をしていました。そしてドイツ人であり、かつ重要な立場の人間がフランスを訪れたのです。この村の司祭を訪れた理由は全くわかりません。
このソニエールは多額のお金を使い続けましたが、1917年1月17日に脳卒中で倒れました。そして死んだのは1月22日です。
興味深いことがあります。脳卒中で倒れる前、彼は完全に健康そうに見えました。彼[ソニエール]には30年以上という長い間仕えてきた女性の召使いがいました。彼女[召使い]は(まだ健康であった)1月12日に彼女の主人[ソニエール]のためにほかの町まで棺を買いに行きました。
1905年にはとても興味深いことが起こっていた。この司祭[ソニエール]は前彼の上司とは良い関係であった。しかしこの司教が死に、新しい司教が赴任してきてソニエールに金の出所を尋ねた。彼は強硬な態度で答えることを拒絶したが、これはカトリック教会のような強固なヒエラルキーの中では驚くべきことであります。
その(ソニエールの上司にあたる)司教はソニエールを聖職売買(simony)の廉(かど)でローマに告発した。しかしその後ソニエールはバチカンとコンタクトを取り、バチカンは訴えのすべてを却下した。とても奇妙に感じたことと思う。カトリック教会の中で最下位の教区司祭が、上位の司祭の告発を覆すことはとても珍しい。しかも彼はバチカンに直接コンタクトを取ったのだ。そしてバチカンはそれを認め、告発を却下した。
そして彼は新しい教会や、その他の新しい建物を建てる際には、とても奇妙な文字で書かれたものを配置したりした。あまり教会らしからぬものが多数存在する。例えば新しく建てられた教会の入り口の上にはラテン語で文字を刻んだ。
TERRIBILIS EST LOCUS ISTE
(ここは恐ろしい場所)
この司祭[ソニエール]が死ぬ際、つまり脳卒中で倒れた後だが、ほかの教区から若い司祭が最後の告解のため呼ばれた。その若い司祭が病人の部屋に入り、しばらくの後ゆっくりと出てきたときには、彼[若い司祭]の顔は真っ青であった。彼はその後二度と笑うことはなかったということだ。そしてそれにも増して衝撃的であったのは彼[ソニエール]が臨終の際の秘蹟を受けることを拒否したことであった。
そして死に際し、今日の記録が間違っていなければだが、彼は告解による罪の赦しを得ることなく死んだ。これは司祭であるはずなのに、全く信じられないことだ。
そしてソニエールの葬式はまたまた奇妙なものであった。残されている記述によると、彼はひじ掛け椅子に座らされて埋葬されたということだ。そして彼の家の門の前に埋葬された。それから誰だか分からない会葬者の一団が村を訪れた。彼らは座っている彼の前に立ち、彼の着ている衣装を小さく切り取り持っていきました。その後彼は埋葬されました。その儀式にどのような意味があったのか誰にも分かりません。その村の住人はそれを目撃していたのですが、何が行われたのか全く理解できませんでした。
そして皆がソニエールの遺言状が読まれるのを心待ちにしていた。なぜなら彼はとてもお金持ちであり、たくさんのお金を使った。そして残された財産がいくらになるのかを期待していた。
そして遺言状が読まれたとき、みんなはがっかりしてしまった。なぜならソニエールが一文無しなのを宣言していたし、つまり彼はお金を全く持っていなかったのだ。そしてすべての彼の所有物は彼の召使いであった女性に譲られていた。
彼女は1953年まで生きていた。彼女は余生を静かに暮らしたということです。
第二次世界大戦後の1946年に新フランス政府は新しい通貨を発行した。そして戦争協力者、ナチの協力者、税金支払い忌避者の摘発が目的で、旧貨から新貨への切り替えの際にそのお金の出所を説明しなければいけないこととなった。
出された法律はこうである:何人も旧フランから新フランへの切り替えの際にはそのお金の出所を説明しなくてはならない。
そして目撃者によると、ソニエールの召使いは出所を説明し、お金を交換することよりも、庭で札束を積み上げて燃やすことを選びました。そして彼女は家の一軒を売って、そのお金で暮らしたということです。彼女は1953年に亡くなりました。
彼女が死ぬ少し前、彼女は家を購入した人に秘密を話すことを約束していました。それはお金持ちになれるだけではなく、権力をも手に入れることができるであろうものでした。しかし不幸にも1953年に彼女は突然脳卒中で倒れました。そして喋ることを失いました。もちろん書くこともできなかったのです。彼女はこの後すぐに死去し、彼はとても落胆しました。彼女は秘密を持ったまま死んでしまいました。
そんなわけで誰も何が起こったのか、お金はどこからきていたのか、ソニエールのお金は何であったのか、知っている者はいません。しかし私たちは資料や、新聞や、写真や、文書、手紙などからたくさんの情報を知ることができます。しかしそれらを一つにまとめ、何が行われたのかを知ることはできません。知っているのは原因ではなく結果だけです。
多くの学者はソニエールが発見したものは宝石のような(物質的な)宝物を見つけたのではなく、情報のようなものであったと考えています。そして彼はそれを使い誰かを脅していたと考えています。しかし謎の多くは闇に包まれていて、その村で何が行われたのかという説は様々な観点からたくさん出されています。
そして奇妙な点があります。ある研究者がソニエールについてのことをバチカンの資料室を調べました。しかしその研究者はバチカンの資料庫にいったのですが、たったの一行すらソニエールの名前を見つけることができませんでした。これはとても奇妙なことです。なぜならバチカンは世界中にいるすべての僧侶の名前と住んでいる場所を記録することになっているからです。
そして私たちは彼が確かに存在していたことを知っています。写真や、文書や、その他の情報から、彼は司祭として活動していたこと、その村の司祭として存在していたことを疑う余地はありません。しかし公式の記録ではその村には1885年から1917年まで司祭は存在していなかったことになっています。
そこに何が起こっていたのか誰も分かりません。全く奇妙です。例えば世界を揺るがすほどではないにせよ、何か重要な事態が行われていたと考えられます。
それではどなたからでも質問、コメント、意見など何でも受け付けます。(実際にはここからディスカッションが始まりましたが、僕の英語能力を超えていますので、今回はやめておきます。多くは残された暗号文についてや、秘密とは何か、誰を恐喝していたかなどです。)
僕自身の理解を深め、そして時間ができたときにそれらについては追加していきたいと思います。
これ以上知りたい方はこちらを参考にして下さい:
題名『HOLY BLOOD, HOLY GRAIL』
著者 Michael Baigent, Richard Leigh, and Henry Lincolin
出版社 Dell Readers Service, 1983
英国BBC放送のテレビ番組作成に伴い書かれた本です。変なミステリーではなく、きちんと調査された証拠を元に書かれています。ただしどこまでが真実で、どこからが推測か分かりません。特に秘密結社のあたりについては疑わしい限りだと思うのですが…。現在はペーパーバック版が$7.50で売っています。
なお去年1997年には上記の書の日本語訳本が出版されました。
題名『レンヌ=ル=シャトーの謎』イエスの血脈と聖杯伝説
著者 上に同じ 林和彦[訳]
出版社 柏書房
値段4,800円です。
素晴らしい本ですので、興味がある方は一読をお勧めいたします。
なお、続編としまして、同じ作者で『THE MESSIANIC LEGACY』も出版されています。
著者 Michael Baigent, Richard Leigh, and Henry Lincolin
出版社 Dell Readers Service, 1986, $7.50です。
ホセさんの講演→僕の植物の話→ディスカッションと続きました。
質問者:羊の皮膚だろ?
ホセさん:はい、羊の皮膚だ。とても高価な羊の皮膚だ。200ページからなる、とても奇妙な繰り返し、とても奇妙な列、とても奇妙なテキスト。ヴォイニッチ氏とマニュスクリプトはアメリカで(一部不明)彼はそれを単純な暗号の文書だと考えた、なぜなら…中世の人々はそんな複雑な暗号を組むために必要な数学の知識がないからだ。
そして、少し後、(一部不明)不幸にも、そのマニュスクリプトに何が書いてあるのか全く分からなかった。読むこともできなかった。このマニュスクリプトはその(描かれている)絵によっていくつかのパートに分けられている。なぜなら…意味するのは、章のような区分けはないことだ。ページナンバーを見ることができる、いくつかのページにはページナンバーが書いてある、しかしそれらはマニュスクリプトが作られた後で付け加えられたものだ。オリジナルのページナンバー、順番を示しているものではない。マニュスクリプトは4パートに分けられている。
第一は草本(herbal)セクションである。草本セクションから既に皆さんに一枚のフォトコピーを配ってある。見てもらえば分かるように、植物の絵が描かれている。植物に違いない。しかし気づいているように、とても奇妙な絵だ。ある人々はその植物を特定しようとした、(一部不明)意味するのは、中世の植物の考えを説明することになる。それら(の絵)はとてもよく描かれているので、どんな種が描かれているのかを理解することは可能であった。しかしどの場合にも、だれもその100の植物のうち、その植物が何であるのかを特定できた者はいなかった。実際にはいくつかの植物には同定されたものもあったが、次第に消えていった。どうしてか?なぜならこの文書は14世紀の謎、場所、方角の情報を持っている。しかし今のところは確かな精度で同定された植物は、ヒマワリ(sunflower)、パッションフルーツ、レッドペッパー(トウガラシ)しかない、どの植物もヨーロッパ原産ではなくて、アメリカ大陸原産だ。しかし明らかに描かれている絵のうちひとつはヒマワリであり、トウガラシであり、パッションフルーツである。これらはヨーロッパではなくアメリカ原産だ。そうなると、とても奇妙なことが起こるか、それとも(マニュスクリプトが)14世紀のものではないかのどちらかとなる。
しかし、今のところ専門家による調査の結果は、文書は本物であるということで、意見は一致しているし、書かれた年代はヨーロッパ中世後期となっている。(一部不明)つまり、とても矛盾が生じてしまうか、もしくは専門家の年代特定が間違っているのか、さもなければ奇妙なことが起こってしまう。
質問者:(質問は聞き取れない。)
ホセさん:しかし、意味したいのはバイキングが、(この後一部不明)
彼らはグリーンランドやフィンランドに植民地を作って、ヨーロッパには帰ってこなかった。
質問者:(質問は聞き取れない。)
ホセさん:それについては分からない。(一部不明)しかしそれを知る方法はないと思うし、僕はそうは思わない。
いくらかの読者は実際に、アイルランドの(一部不明)は実際に初期のアメリカのものと同じである。(一部不明)は、こんなふうに言い、こう書き残しているが、こんなことも言っている。「彼らは空と(一部不明)の始まりに近い場所に到着した。」
えー、とにかくVoynich Manuscriptはいくつかのパートに分けられている。次は…。
質問者:(テープが聞き取れない)
ホセさん:いやいや、そんなことは言っていない。伝説が(一部不明)。それについてこれ以上有効な情報を得ることはできない。
質問者:いいえ、違う。(聞き取れない)
ホセさん:違う、違う、(聞き取れない)有効な情報を得ることが出来ないと言っただけだ。
次のセクションは天文(astronomical)セクションです。このセクションは星のようなマークが書かれています。このように全く奇妙な絵が描かれています。(コピーを見せながら)これが天文セクションからのコピーの一枚です。これはとても良く(一部不明)が描かれています。そして次は、いろいろと意見の違いはあるにせよ、生物学(biology)セクションです。生物学セクションについてはみなさまに一枚別のフォトコピーを配ってあります。これらは小さな裸の女性がお風呂のようなものに入っている、もしくは本当にお風呂なのか、このように小さなゴミ箱のようなものにも見える。たくさんの太った女性が奇妙なものの中にいるのが分かると思う。
最後にレシピ(recipe、ここではおそらく薬草の処方についてのことだと思う。)と呼ばれているセクションを見たいと思う。レシピセクションにはたくさんの絵が描かれている。たくさんの奇妙な植物と、テキストが少し、それらはたぶん植物の名前を表していると思われている。
しかし誰もVoynich Manuscriptの(折り込まれた)ページの元来の順番を知らない。第二に、テキストと絵が関係あるのかも分からない。それではVoynichがマニュスクリプトを(一部不明)したとき、それらを復元することは全く不可能だ。それでは、(一部不明)あなた方が、それをナンセンスとする。テキストは意味を持っていないものとした。
しかし我々は1940年代に行われたものを少しだけ知ることができる。そこでは暗号解読者たちがマニュスクリプトを調査し、報告している。統計的調査、数学的調査によると、書く記号の変化がランダムであるか、そうでないかを知ることができた。記号は45の情報が(一部不明)。そして驚いたことには、テキストはランダムでないことが発見されたのだ。統計的調査によってテキストがランダムでないことが分かっただけではなく、45の情報が、(一部不明)マニュスクリプトを理解するために様々な試みが行われ、その結果二つの言葉があることが分かった。ある人はこれが異常な言語で描かれたものだと言った。ある人はこれはアルファベットとは全く異なると言った。今までに成文化された言語ではなかった。たくさんの人たちがマニュスクリプトをラテン語や、ギリシア語といった通常の自然言語で書かれていると想定して解読しようとしてきた。しかし次第に、(一部不明)それから学んだことは、マニュスクリプトが近代になって作られたということだ。
今日では我々は暗号製作のツールを持っているわけだが、彼らのそれは洗練されていなかったに違いない。意味したいのは、現代の暗号学者が暗号化するのは朝飯前だということだ。そうだろ?しかしマニュスクリプトがラテン語、ギリシア語、中世フランス、中世イタリア、中世ドイツ、中世英語といった当時ヨーロッパで話されていた言語で書かれていると想定して解読しようとした試みは全て不成功に終わった。
別の考えでは、これは特別なアルファベットを使って書かれたというものだ。これならば言語の文字的な特徴を見て、統計的な分析が行えるはずである。言いたいことは、つまり、例えば異なった言語には我々が言うところの「言語エントロピー」というものをそれぞれ持っている。「言語エントロピー」というのは、文字や、文字の組み合わせ(単語のこと)の出現する頻度である。言語には繰り返されるのか、そうでないのかといった、強い傾向がある。低エントロピーか高エントロピー言語か、それは例えば…、日本語は低エントロピー言語と考えられる。なぜなら日本語そのものが比較的少ない音を持つこと、それに日本語は繰り返しを多く使うことからである。雨の降り始めなどに特徴的な擬声語を使うことで説明できる。「ぺらぺら」や「ゴロゴロ」を使うだろ。(一部不明)単語を話し言葉や、書き言葉でも同様良く使う。しかしそれらは同じ音を持った繰り返しであって、日本語の文章では多くの場合、文字の音のセットの繰り返しそれ自体が繰り返される。全く低エントロピー言語である。高エントロピー言語については、たとえば、良く知らないな、スペイン語とか、うーん…、みんなはたくさんの言語を知っているけれど、そんなに繰り返しは多くないと思う。
別の低エントロピー言語の例としては、スワヒリ語がある。スワヒリ語は繰り返しの多い言語であり、意味したいのは例えば(ここでスワヒリ語を発音していますが、僕には分かりません。「グーイスプク グーシープクプク」とか聞こえますが。)
えーと、つまり人々は分析の結果、これは低エントロピーの自然言語だと信じていることです。そして彼らが発見したことは今ではとても有名なことですが、とても奇妙なことに、ヴォイニッチが最も低いエントロピーを、世界で最も低いエントロピーを持った言語と同じくらい低いエントロピーを持っているということです。考えられないほど多くの繰り返しと、(不明)を持っているということです。事実、ヴォイニッチと同じくらい低いエントロピーを持った言語は少数、ポリネシア、マレーの言語に見られるだけです。
それでは、このことが、私たちにテキストが何らかの意味を持っていることを確信させた。では一体、誰がこんな困難な仕事を、忍耐を持って行ったのであろうか、しかも200ページもの羊皮紙は高価であり安くはない。(一部不明)200ページ完全に手書きされた、未特定の自然言語とは何なのか?
奇妙な絵と、未知の言語が書かれ、お金のかかった、200ページものマニュスクリプトについてどう感じましたか?たぶんアーティストが描いたと、(一部不明)遙か以前の起源の(一部不明)を初めて見た感想は?
それでは、つぎに高橋さんが植物セクションについて彼の知っていることを説明します。彼は植物を勉強していて、植物の観点からマニュスクリプトを研究しています。
Voynich Manuscriptは今までに様々な(植物)学者の作品とされてきました。その理由は明らかであり、Voynich
Manuscriptにたくさんの植物が描かれているからです。Voynich MSと植物というキーワードで結びついている人物を揚げます。
その内容を簡単に紹介します。「Botanical Observations on the Voynich MS -Hugh O'Neill」です。ペターセン博士はVoynich MSの所有者(当時)のヴォイニッチ夫人の好意により、Petersen Hand Copyを作りました。著者オーネイルはペターセン博士にVoynich MS中に描かれたたくさんの植物をなんとしても暗号を解くために特定して欲しいと頼まれました。いくらかの植物は見る影もなくデザイン的に変えられ、様式化されてしまっている。一方でいくらかのものは容易に種を特定できる。例えば folio 25 に描かれているものはイラクサであり反対に円形でギザギザした葉となっていて、尾状花序が付いている。 folio 100v にははっきりとヒメハナワラビ(2)の絵が描かれている。
特定に際して最も驚かされたのは、 folio 93r における普通によく見られるヒマワリ(3)の同定に関してのものだ。植物学者達は私の意見に賛成してくれた。このことは1493年にコロンブスが二度目の航海から帰ってきたとき初めてこの植物(ヒマワリ)の種をヨーロッパにもたらしたことを思い出させる。
folio 101v を見てみよう。そこに描かれている絵はどれもヨーロッパ原産の植物とは似ていない。はっきりと唐辛子属(4)と分かる植物があり、それは厳密にアメリカ原産であり、ヨーロッパで知られるようになるのはその年代(1493年)以後のことである。
したがってヴォイニッチ手稿は1493年以降に書かれたと推測するのが妥当なところであろう。
との結論です。
(1)女性の治癒者はたくさんいて、彼女らは家族の中の男性から技術を学んだ。いく人か医学書を書いた女性もいる。Hildegard
of Bingen (1098-1179)は8歳の時に修道院に入れられ、それから宗教的なヴィジョンを見るようになった。彼女はRupertsbergの修道院長として薬を研究した。彼女の主著
Liber
simplicis medicinae (c. 1150-60)[簡単な医学の本]では病気に効く薬草、鉱物、動物を紹介し、病気の原因も書いた。これらの中には動物、野菜、鉱物を使った民間伝承の治療法を簡潔にまとめ、治療に際しては「反対の原理」を勧めた。なおハンセン病などの重病には、異国の治療法として、一角獣の肝臓、ライオンの心臓などを勧めた。薬草は神の贈り物である。なぜなら治癒する人も、病人も「神のために死ぬのだから、治癒されるのを望まないでしょう。」
- Roy Porter, The Greatest Benefit to Mankind
(2)ヒメハナワラビ
Botrychium Lunaria L. ボトリチューム属、ハナワラビ属。
属名のボトリチュームは botrys (ブドウの房)の短縮形。房状をした胞子葉の外見による。世界中に広く分布。
(3)ひまわり
Helianthus annuus L. ヘツアンツス属、ヒマワリ属
主として北アメリカに160種。17世紀初頭にヨーロッパ諸国から出た園芸書には既に記載されている。正式には1596年欧州へ紹介された。
(4)唐辛子
Capsicum L. カプシクム属、トウガラシ属
南アメリカ原産。変種として100種以上。リンネは‘Hortus Clifforensis'
(1732)に2種を記載。1493年にコロンブスがスペインに輸入。
ではどうして3種だけオーネイルは特定が可能だったのでしょうか。確かにヒメハナワラビはかなり似ています。ヒマワリは言われてみればそう見えなくもありませんが、ではなぜfolio 93rではなくfolio 33vの植物をヒマワリと言わなかったのでしょうか?たしかにVoynich MS中にはキク科の特徴を表すものが多く描かれています。Voynich MSの作者は何百という未知の植物を描きながらなぜたった3種の同定を許してしまったのでしょうか。おそらく想像で描いたものがたまたま1, 2種偶然似てしまった(5)ものだと思います。何かを隠すという目的より、初めから想像上の植物を描いたのではないでしょうか。それと今日は持ってくるのを忘れてしまったのですが、別の大判シートには植物の茎の断面によく似た、維管束系を描いたのではないか?と思われる図もあることはあります。トウガラシはあまり似ていません。
(5)実際に、植物に詳しい生物学科の教授に見せたところ、確かではないが、いろいろ似ている植物はたくさんあると言われました。おそらくVoynich MSの作者は植物の知識はあったが、何らかの理由で正確には描くことをしなかったのでしょう。
この他にもRobert S. Brumbaughが"Botany and the Voynich 'Roger Bacon'
Manuscript Once More"という題でSpeculum 49 (1974)でコショウについてテキストから特定を試みています。(詳しくはこちら。)
75577*52=PEPPER や PAPAVERUS=POPPY や PAPERYCUS=PAPRIKAです。ほとんどナンセンスです。
なお、この後ディスカッションが30分ほどありました。興味深い議論もたくさんありましたが、テープ起こしや、翻訳など大変ですので、いつか時間ができたとき、ということでお願いします。