異端カタリ派

もしあなた方がこの世から出たものであったら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だからこの世はあなた方を憎むのである。
  − John 15:19

まず翻訳をご覧頂く前に、カタリ派とは何か?という概略を知ってもらいたいと思いました。まずは、簡潔にして優れた、世界宗教大辞典から「カタリ派」の項を引用し ます。

カタリはカタリ派
中世ヨーロッパで一時有力だったキリスト教異端の一派。カタリ(Cathari)とは清浄派の意。極度に禁欲的な戒律を奉じたためにこの名が生じた。二神論を 基本教義とする。アルビジョア派、パタリニ派、ブルガリ派、プブリカニ派等、地方と時期により多くの別称がある。最初12世紀半ばライン川沿いの諸都市及び低 地帯で発見されたが、次第に南に広がり南フランスと北・中部イタリアに確固たる地位を築いた。そのため南フランスではアルビジョア十字軍の発進を、また異端審 問制度の創設を必要とした。14世紀半ばに根絶される。
 善神と悪神、さらにそれぞれの属性や領域の対立を想定し、いっさいの物質的存在、現実世界そのものを悪神に属するとみる。人間観は、善神の天使(霊魂)が悪 神に捕らえられ牢獄(肉体)に封入されている状態と考える点に特徴がある。教義の細部については彼らの間に相違があり、二神二世界の永劫の存在を想定する絶対 派、善神の一天使が反逆して悪神となった、つまり悪は善からの派生物で有限であるとする穏和派の別があった。霊魂の輪廻転生説をとるのは絶対派のみである。 ローマ教会を悪魔の教会として攻撃し、旧約聖書は悪の世界の創造者たる悪神の書として排撃した。十字の聖号は、キリストを殺害するという人類最大の罪の記念で あるとして嫌った。独自の教団を組織してキリストの真の教会と称し、司教を戴いた。按手礼を受けて教会の信者となり戒律をまっとうするとき、霊魂は悪神の世界 から解放されて天界に復帰できると信じた。肉食、殺生、生殖、婚姻、所有など、いっさいの世俗生活を否定し、しばしば断食して苛烈な苦行を実行した。家族、誓 約、権力など、いっさいの社会関係も否定される。このような極度に悲観的否定的な教団に入信するものは比較的少数だったが、その周囲に彼らを尊信するものが多 かったために社会的に大きな影響力を発揮したのである。同派は中世にあってはマニ教の復活ないし再流入と理解され、今に至るも異教か異端かの議論が行われてい る。10世紀から14世紀末までバルカン半島の存続した二神論異端ボゴミル派の強い影響下に西欧に発現したことは確実であり、カタリ教団の設立に当たってはボ ゴミル教団の指導を仰いでいるし、《ヨハネ問答録〈秘密の晩餐〉》や《イザヤ見神記》等の偽書も東方から受容されたのである。さらに先行する近東の二神論異端 小パウロ派からの影響が混入していることも、十分に考えられる。しかし、これら先行異端とマニ教との連続は立証できない。カタリ派はやや独自の解釈を加える傾 向はあるものの、新約聖書の章句に固執し、原始キリスト教団の生活を理想化してそのまま実践しようとする強烈な意志を示した。二神論教義も、立論の根拠は常に 新約聖書であった。儀典や慣行の中にも、異教的要素は全く見いだされない。マニ教から、あるいはグノーシス諸派からの間接の影響が及んでいないとは言えない が、基本的にはキリスト教内の異端であった。  渡邊昌美
  - 世界宗教大辞典 pp.358-359


迫害の時代

小パウロ派とボゴミリ派

その宗派の起源は3,4世紀にまで遡ることができる。カタリ派の集団は、皇帝デキウス(在位249-251)によるキリスト教徒に対するひどい迫害 (249-250)を背景にイタリア、フランス、イベリア半島、そして東方でも起こった。251年皇帝の死後、ローマの信徒たちの間で論争が起こった。迫害の間もその信仰を否定することを拒んできたある厳格なグループが、キプロス人に支持された皇帝コルネリウス(在位251-253)に反対するためにノバチアン地方(Novatian)の司祭を担ぎ出した。彼らは教会には免罪の「代理人」の資格はないと主張した。彼らはカタリ派を称し、それは清浄なる者を意味し、神の概念を発展させたが、正統派にとってみればとてつもない脅威であった。彼らは聖職者たちが人々に振りかざす免罪の力と権威に対して闘った。カタリ派の人々は代わりに、一人一人の心の奥で働く聖なる精霊(天使)の力を頼りにした。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud -In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled (1994)

本来この、天使的な清浄を主張するのは、この世が完全に邪悪で、悪魔的であるということと関係していて、それは「カタリ」という語の語源を、推測で、おそら くギリシア語の「pure」から来たものだという、誤ったものにしてしまったのであろう。実際「カタリ」というのはドイツ語が語源であって、「清浄 (purity)」とは意味的に何の関係もない。
  - Emmanuel Le Roy Ladurie Montaillou, The Promised Land of Error

ヨーロッパで組織されたカタリ派は5世紀中頃に突然消えてしまった。しかしモンタノス主義の黙示録派によって支えられた東方のノバチアン地方のカタリ派は続 いていた。アウグスディヌスが28人の異端者を確認した、混乱していた時期に、グノーシス派とマニ教は教会を広く組織し、カタリ派は地下へと潜った。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled (1994)

アルメニアのローマ・カトリック教会は数世紀に渡り残酷な迫害と、数度の組織的な壊滅の試みを受けた。そして危険な異端、特に小パウロ派とトンドラキットと 戦わなくてはいけなかった。これら小パウロ派はギボンの書「The History of the Decline and Fall of the Roman Empire(1776-88)」の中で特に顕著なように、早期キリスト教グノーシス派とマニ教の中世における後継者であった。小パウロ派の信仰は、彼らの敵を攻撃し破壊 すること、聖パウロを真の唯一の使徒として支持すること、旧約聖書の否定、世界の創造は天使と新約聖書の神との闘いによって行われたとの主張、である。彼らは 強い偶像破壊思想を持っていて、像を破壊し、可能ならば十字架さえも破壊した。
  - Burney and Lang, The Peoples of the Hills

しかし小パウロ派の問題は、それが正確に定まったものではなかったこと、歴史家の意見としてはマニ教とマルキオン派がアルメニアで混ざり合い組織されたとさ れている。そこはビザンティンの一部となり、7世紀には確かにコンスタンティンという名前へ繋がっていった。なぜならキリスト教信仰の基礎となる聖パウロの使 徒書簡の古い形を新しいものにし、布教する努力によるものであり、その支持者が小パウロ派を自称した。ビザンティン皇帝コンスタンティン5世 Copronymus(741-775)はいくらかの小パウロ派をアルメニアからトラキアに移住させ、それから再び別のグループが同じ地方に皇帝レオ4世 Hazarski(775-780)によって移住させられた。小パウロ派の布教活動はすぐにトラキアからバルカン半島中に広がり、最初はマケドニア、ブルガリ ア、ギリシャといった近隣諸国に広がった。
  - Dragan Tashkovski, Bogomilism in Macedonia (Macedonian Review Editions,1975)

起源830年から、小パウロ派のアルメニア人分派の活動はトンドラックと呼ばれた村が中心であった。トンドラキットという名はこれに由来する。彼らは、聖職 者と一緒になって彼らを迫害、抑圧してきたアルメニア人豪族たちの封建的な特権に対して闘った。トンドラキットは現代のソビエト歴史家たちからは現代の共産主 義の原型として受け入れられていた。彼らの教義の手引きを紹介したパンフレットが1898年「The Key of Truth」のタイトルで出版された。小パウロ派はバルカン半島でのボゴミリ派の発展に大きく影響し、特にブルガリアにいたアルメニア移民には重要であった。
  - Burney and Lang, The Peoples of the Hills

 トラキラ人と、ボゴミル派。トラキア人には、新生児のために涙を流す習慣があった。また、ボゴミル派の人びとは、神を無罪たらしめるために、<創造>とい う汚辱に充ちた仕事をサタンのせいにした。このことも久しく脳裡を去らない。
  - 生誕の厄災, E. M. シオラン

9世紀アルメニアでは、コンスタンチノプールの皇帝が異教徒に対する死罪の勅令を出したのに伴い、山の多い辺境の地にはグノーシス派を始め様々な信仰を持つ 異教徒が避難してきた。これら追放者の中にはいわゆる小パウロ派もいて、マニ教−グノーシス主義が混ざり合ったものを起源とする戦闘的な宗派もあった。しかし 皇帝からの政治的支配から逃れたことでその信仰は忠実であった。(小パウロ派は)872年の戦いにおいて敗れ、いくらかはバルカン半島に追放された。
  - Tobias Churton, The Gnostics

小パオロ派は、バティラクスの合戦(八七二年)で徹底的に撃破され、クリソケイル(注:小パオロ派の将軍)自身もここで討ち死にした。バシレイオス1世は、 この勝利を利用して組織的な虐殺を始めたりはしなかった。それどころか、多くの信徒を自軍に編入し、その他の者も大勢バルカン半島に移住させ、その地で説得し た結果、大多数を改宗させるのに成功した模様である。ともあれ、こうしてバルカン半島に二神論の種子が持ち込まれたのである。
  - フェルナン・ニール, 渡邉昌美 訳 『異端カタリ派』(白水社)

10世紀になって初めてブルガリアにおけるボゴミル派の教会(の存在)を聞くことができるようになった。「ボゴミル」というのはブルガリア語で 「beloved of God」または「God have mercy!」という祈りを意味する、もしくは(ボゴミールと号した)開祖の名に由来するとされる。彼らの信仰はグノーシス派のそれと同じ特徴を持っていて、世界の創造は 神によって行われたものではない、というものだ。
  - Tobias Churton, The Gnostics

マニの教えの中の本質的なものが10世紀、ブルガリアの僧ボゴミルの教えの中で復活した。彼もまた地上の全てのものは邪悪で汚らわしいものだとした。ボゴミ ルは地上世界を神の長子であり、キリストの兄弟である悪魔の所産と考えた。
  - Cosmic Duality

ボゴミル運動はペルシアのゾロアスター教のような「絶対二元論」として始まり、2つの究極原理としての悪魔と神を説いた。後にはやや穏健なもの(「穏和二元論」)、世界の創造は神の長子である悪魔の謀反によると見なした二元論へと形を変えた。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

悪魔だけではなく、実体を持たない父なる神には息子、キリストや大天使ミカエルもいた。悪魔は地上の人間をつくったが、しかし彼の命もまた父からのもので あった。キリストは悪魔と戦い征服するために、外見を人間の姿にとった。
  - John Ferguson, An Illustrated Encyclopaedia of Mysticism and the Mystery Religions

...ボゴミル派の人々は悪魔によってつくられた(この地上と)神の霊的な世界は全く違うものだと考えていた。キリストが地上へ顕現したこと、そして磔に あったこともボゴミル派は単なる幻想だとした。ブルガリアの(ボゴミル派の)信者たちは、聖母マリアは実際にキリストを生んだわけではないが、しかし彼[キリ スト]は彼女の右耳から体の中に入り、それから再び、幻の如く体の外へ出てきたのだと、説いた。ボゴミル派によれば、十字架の上でキリストは殺され、それは悪 魔の仕業によるものである、という理由で、(彼らは十字架を)罵った。婚姻、生殖はさらなる物質を生み出すことになるだけという理由で、否定された。この観点 に従えば、肉食、ワイン、教会、そして教会におけるいかなる形のヒエラルキーも否定された。ボゴミル派は洗礼のサクラメントと聖体の中のキリストの存在を否定 した。彼ら信心深い信者がその信仰を表すことができるのは、通常の主への祈りの時だけであった。
  - Cosmic Duality

12世紀はじめになると、ボゴミル派の宣教師たちはドナウ川に沿って東に移動し始めた。おそらくコンスタンチノプールでのボゴミル派に対する迫害の結果であ ろう。残された唯一のミステリーは、このボゴミル派の宣教師たちが、実際に、ラングドック(Languedoc)におけるカタリ派の創始者となったかだ。 [Languedocというのはプロバンス語のlangue d'oc(オックの言葉)から来ていて、ラテン語とともにカタリ派の儀礼で用いられていた。]
  - Tobias Churton, The Gnostics

おそらくボゴミル派や、カタリ派の異説的二元論傾向の影響を受けて、キリストの伝説の外典(例えばThe Wood of the Cross, Gospel of Nicodemus, How Christ Became a Priest, Adam and Eve, and Interrogatio Iohannis)などが東、西、両ヨーロッパに広がったのだろう。彼らは常に世界の共同 創造者である悪魔の役割について、そしてその堕落は邪悪な世界が存在することによると強調した。(創造における)伝説において悪魔は主要な役割を演じ、その悪 魔の活動は、通常善神の創造するエネルギーを消耗させて(それを)不活動にする。
  - Encyclopaedia Britannica


カタリ派

(1)信仰

カタリ派はマニ教の予言者マニに言及することはなかったが、特徴は共通するものがあった。マニ教は自身を新しい啓示を受けた代表者と考えたが、彼ら[カタリ派]は そうではなく、自分たちを真の忠実なキリスト教徒と考えた。彼らの主な教義は新約聖書であり、特にヨハネの福音書(Gospel of John)と他の3つの福音書に注目していた。「Cathar」という単語はギリシア語の「katharos」から来ていて、意味は「清浄 な、汚染されていない」という意味です。
  - Tobias Churton, The Gnostics

カタリ派は自身をキリスト教徒と称し、その教義は聖書に基づいていた。彼らの教義、行動、キリスト教としての教義を身につけ、歴史家が今でも議論しているよ うに、時が経つにつれてますますキリスト教的性格を帯びてきた。しかし彼らはキリスト教と根本で異なっていた。彼らはひとつではなく、二つの神を信じていた。 つまり、全ての生命や教えは二元的過程から創造されたという、圧倒的重要性を前提にしていた。ひとつは非物質世界の善であり、もうひとつは物質世界の悪であ る。魂は(地上世界に)落ち、捕らえられ、身体という悪の神の牢屋に閉じ込められてしまった。全物質的身体(肉体)の中に魂は捕らえられている、そこからの救 済は肉から逃れることである。生殖や、その生産品、例えば肉、牛乳、卵の消費は、悪の世界がしたことであり、善を熱望する人々は避けるべきことである。
  - R. I. Moore, The Birth of Popular Heresy

カタリ派は生まれ変わり(魂の再生)を信じ、罪人に対する永遠なる断罪を否定していた。魂は人間の体の中で何回も寿命を送らされ、救済を待つ。カタリ派の教 えではこの世の肉体は邪悪なものであるから、したがって神は肉体を持った人間にはなれない。そこでカタリ派は、キリストは神ではなく、神の使者であり、外見だ け人間の形を取ったと考えた。カトリック教会がサクラメントの際神への祈りを水、パン、ワインなどの物質を通して行うことを取り上げ、カタリ派はそれらを神へ の冒涜であるとした。婚姻も強く否定された。それは子供を生むことになり、悪の物質的肉体の中に魂が捕らえられることになるからだ。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

カタリ派は洗礼、十字架のシンボル、個人の懺悔、全ての宗教的装飾品を拒絶した。教会の役割はシンプルであり、どこにでも教会を開けた。それらは福音書を読 み、簡単な説教をし、祝福、主の祈りから成っていた。カタリ派は典礼に関して基本に戻り、単純化したが、後に現れるプロテスタントを先んじていたわけだ。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

その作品を作った作者はどのように悪魔が男と女に原罪を与えるために楽園をつくったのかを物語り続けた。彼[悪魔]は悪意に満ちた目的を持って天使の魂を囚われの 身にした。コンソラメントウム(consolamentum, 救慰礼)とはカタリ派に悪魔の物質的拘束から効果的に逃れ、神の精霊、聖なる精霊に結合する力を与えるものであり、儀式が行われるまではいわば眠っている状態であ り、(その後)キリストの愛による解放に加えられることができる。受礼者たちはいま、真理の中で神を「父」と呼ぶことができるようになった。
  - Gerard Zucherro, Rosamonda

魂がこのさまよい続ける霊魂輪廻から逃れる唯一の方法はカタリ派的に「完徳者」であり「善良なるキリスト教徒」である身体に留まることである。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994)

...カタリ派にとってのある重要なシンボルはハトであった。当時それらは、今日私たちが考えるように、「平和」を意味していた。もっと正確にもっと微妙な概念で いえば神の愛の中に「恩寵」が存在することを意味していた。第一回十字軍(1096-99)が行われた後、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godfroi de Bouillon,第一回十字軍の指揮者)の仲間の中にいたヨーロッパカタリ派がイスラム神秘主義のスーフィー教徒と連絡を取った。ハトのシンボルはイスラム神秘主義のバ ラカと図像的につながることになり、同様「恩寵」もしくは「恩寵の船」になれることを意味した。いくつかの例では、カタリ派のハトは羽をいっぱいに伸ばした形で描 写されているが、スーフィーの書の中のバラカにも船の形にした似たものがあり、ハトの羽と船のオールは逃走と、魂の自由を表現している。
  - Michale Bradley, Holy Grail Across the Atlantic

旧約聖書の中の創造についての説明では、神の魂は原始の海の上を鳥のように浮かび、羽を打って動き、流動体の中に神の息を吹き込み、そこから世界は作られ た。(Genesis 1:2)プリニウスが語ると、その有名な息(spiritus)は子宮のようなものの中でゆらゆらと変動しながら宇宙を生み出す。洗礼の際、精霊がキリストの 頭上で羽ばたくのを描写したイメージと似ている。(Matthew 3:16)
  - John M. Allegro, The Sacred Mushroom and the Cross


(2)実践

ボゴミリ派及びカタリ派は初期マルキオン主義やマニ教の二元論者とは、少なくとも通常の信仰において、性に関する認識に関しての教えは異なっていた。ほとん どの年老いた二元論者たちは厳格な禁欲を求めた。例えば、肉食の禁止、他の動物的な食物の禁止、ワインの禁止、そしてセックスの禁止。婚姻に関してはいくつか の理由から反対されていた。それは肉体に基づいていて、性欲とも関連している。加えて言えば、結婚は子供を生むことになる、それは新たに魂を肉体の支配の下に 置き、罪悪の原因となる。なぜなら通常のヘテロなセックスは子供を産むことになる、それは認められない。そしてその場所では様々な違った形を持ったセックスが 促進される。"bugger"という卑語は堕落したブルガリア人を意味していて、その名前はバルカン半島が故郷である、西ボゴミルの人に与えられた。しかし中 世マニ教徒は信者がわがままに、信仰に従わない暮らしを送ることを認めていた。全てのカタリ派は死ぬ前にコンソラメントウム(救慰礼)を受けることになってい たし、そうすれば安らかに死ぬことができたのである。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

カタリ派は子供を産むことは罪悪と考えていたが、それ以上にセックスに関しては反対していた。無関係な物質世界における行いと信仰を繋ぐことで、全ての肉体 にある罪は死ぬ前に行われるコンソラメントウムによって消されるであろう。カタリ派の社会は事実上正統的宗教に見られるようなセックスに関する制限をなくして しまった。興味深いことにプロバンスの人口は急速に増え、それがカタリ派の拡大につながったと言うことを付け加えて記しておく。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

通常の信者(帰依者)は死期が近づくまではコンソラメントウムの儀式を受けることはなかった。その取り決めはふ つうの信者にとっては厳格なものではなく、死期が近づいたときに行えば良かったので、かなり楽しい生活を送ることを許すものであったのである。しかし(ふつう の信者がコンソラメントウムの儀式を受けて契約し)異端者となったならば全ては変わる。一度儀式を済ませたら(1300年代後期カタリ派の頃までは)エンドゥ ラ(endura,耐忍)の状態、絶対的で自殺的な断食をしなくてはいけなかっ た。その瞬間から、逃げてはいけなかったが、しかし彼らの魂を救うことは確実であった。女性や、肉に触れることは死ぬまでできなかったが、しかし自然の為すこ とであり、エンドゥラの結果であった。
  - Emmanuel Le Roy Ladurie, Montaillou, The Promised Land of Error

カタリ派には二つの分類があった。一般信者は帰依者(credents, believers)と呼ばれた。彼らは完徳者(perfecti, bonhommes)と呼ばれるカタリ派教会の上位者のような厳格な節制のきまりには従わなくても良かった。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

カタリ派でもカトリックでも全ての結婚した女性は(夫からの)暴力が待っていた。求婚に関しても男性が主導権を握っていたし、後には暴力の権利も主張した。 Guillemette Clergueの目の周りのあざは、そんな夫からの行為(暴力)を示すものであった。いくつかの事故と病気でGuillemetteは目を悪くした。そして治 療しに旅にでた。その途中で完徳者Prades Tavernierに出会った。彼は彼女が殴られたのだろうと思って、後にはJacques Fournierに対する彼女の証人となった。Guillemetteは夫の虐待から死の恐怖を感じたので、Tavernierの分派と良い関係を続けた。
しかし女性たちはは完徳者たちには受け入れられ、広く女性たちにカタリ派を引きつけるものとなった。完徳者はカタリ派の司祭として信者とともに田舎をまわっ た。女性と男性は一緒に改宗者を得るため、信仰を維持するために働いた。完徳者は女性にカトリック教会では決して得ることのできなかった高い地位を与えた。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

男性でも女性でも誰でも完徳者に加わることを強く望む者は少なくとも2年間は続く試練を通過しなくてはならなかった。その期間は、彼または彼女は全ての俗世 のものから離れ他の完徳者と一緒に暮らさなければならなかった。肉やワインの飲食も絶たなければならなかった。肉からの誘惑を避けるために、新入りは別性との 接触は否定され、裸で寝ることも許可されない。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

頭に手を置き(按手)行われるコンソラメントウムという儀式を通して、カタリ派信者は完徳者のクラスまで上れる。儀式はこれまでの罪を無にするだけではな く、人生が続く間それをカタリ派に保証する。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

大きな集団になると帰依者や、信者は生活に何の制限も受けてはいなかった。全ての休暇には従った。正統的キリスト教と違って、カタリ派は食事・飲酒に関しては何の 制限も課されていなかった。最も重要なことは性的なことに関する掟はほとんどなかった。ただ一つカタリ派の重要な義務は正統派の教会(カトリック)に対する忠誠・ 信仰を放棄し、死ぬ前にコンソラメントウムの儀式を受けるだけであった。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

Catholics, Heretics and Heresy, by Gilles C. H. Nullens...セクション 1.2「カタリ派の信仰」によると、彼はカタリ派の4つの現存する文書について触れている。

アルビジョア十字軍については多くのことが知られているが、カタリ派異端については確実なことは分かっていない。そもそもカタリ派についての資料は部分的にしか残っておらず、異端に対する神学的反論や異端審問の尋問・判決の詳細な手順は圧倒的にカトリックの側に残された資料に由来するものである。これらの文書は、異端審問官たちが、カタリ派の信仰がいかに正統派の規範から逸脱しているかを立証することに主眼を置いており、彼らの信仰のその他の側面についてはほとんど触れていない。今世紀になって、1939年にAntoine Dondaineがフィレンツェで二元論に関する教義書『Liber de duobus principiis』(カタリ派のオリジナル原稿)を発見し、少しずつ、彼らの姿が明らかになってきた。


アルビジョア十字軍(croisade des albigeois)

またこの王の時代(フリップ2世、位1180〜1223)に、マニ教の影響をうけ、南フランスの諸侯に保護された異端のアルビジョワ派(カタ リ派)の討伐が進められ、彼らは13世紀のルイ9世のときに根絶された。
  - 詳説世界史(山川出版社)

ローマの聖職者たちはカタリ派の聖職者である完徳者に比べてひどく堕落していた。実際サン・ベルナール(Saint Bernard)が1145年ラングドックにこれら異端者を説教しに旅にでたとき、彼はこんな印象を受けた。彼らの説教はキリスト教徒のよりキリスト教的で あったし、彼らの信仰は純粋であった。
  - Michale Bradly, Holy Grail Across the Atlantic

カトリック教会は異端カタリ派の拡大と闘った。まず初めにカタリ派の信者を(正統の)キリスト教会に戻すためにシトー修道会のクレールヴォー院長 (Clairvaux)サン・ベルナールを先頭に説教のため急派した。修道士はほとんど会話することもできなかったし、異端からの反抗にもあってベルナールは 落胆してしまった。彼の努力はトゥールーズの街頭で聴衆の叫び声にのまれただけであった。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

1179年には11回目の全キリスト教側の会議がラテラノで行われたが、そのとき法王アレクサンデル(Alexander)3世はカタリ派とその教えを支 持・保護する全ての人に向けた呪詛を宣言した。全ての忠実な(カトリックの)信者たちにこの「ペスト」に反対することを熱心に要求し、それらに対して武力の行 使も辞さない構えだった。カタリ派を殺害したものは誰でも2年間の悔悛の免除と、十字軍として教会の保護が得られた。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994)

アルビジョア十字軍は本来的にマニ教的二元論に対しての十字軍であった。1209年、三万の騎、歩兵からなる軍隊が北ヨーロッパから南フランスのピレネー山脈北東 山麓の山の多い地方-ラングドックを嵐のように急襲した。その戦いで全ての地域は破壊され、作物は破壊され、街や都市は跡形もなく破壊され、全住民が虐殺された。 この絶滅は広い範囲で、大変凄まじいものだったので、近代ヨーロッパ史上初の「ジェノサイド(大量虐殺)」であったとされている。ベジエの街ひとつを取り上げて も、少なく見積もっても一万五千人の男、女、子供が無差別な虐殺にあった。それらはほとんど教会という聖域の中で行われた。(住民は教会へ逃げ込んでいた。)
  - Baigent, Leigh & Licoln, The Holy Blood and the Holy Grail

テンプル騎士団もまた法王のカタリ派壊滅の命をうけた。騎士団は直ちにそれに応じ、1209年フランスのアルビとトゥールーズの街を焼き払った。
  - Sebastian H. Lukasik, "Death of a Kingdom: The Battle of Hattin", Command Magazine, Issue 44, Aug. 1997

1209年、ベジエ攻略の際、兵士が法王の代理人(シトー院長)に異端とカトリックの見分け方を尋ねたときの答えはこうであった:

おそらく最後の完徳者たちは、1244年3月12日抵抗をやめ自発的に要塞の外へと出ていった。そして火刑台(Champ des Cr駑ats)の上で焼かれ死んだ。彼らの最も好んだ聖ヨハネの手紙に救いを見いだしながら。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994) 教皇インノケンティウス(位1198〜1216)の時に、彼の命令ではなかったのだけれども、悪名高い第4回十字軍が聖地回復のためコンスタンチノプールを占領し た。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

カタリ派とテン プル騎士団の共通点

カタリ派の消滅

なお1307年頃ベジエに、また1318年にはカペスタンに、それぞれ異端若干名のいたことが知られている。その翌年にはトゥールーズで、審問判決が行われ ている。1320年、多数の異端がピレネーのスペイン側斜面に隠れていた。1321年から1335年までの間にも、まだ異端のかどによる判決が幾度か宣告され てはいるが、次第にその数は減ってきている。14世紀末頃になると、ラングドックの異端審問はもはや事実上活動していない。異端がいなくなったのである。
 カタリ派は、実際に消滅したのであろうか。これはしばしば出される問いである。往時のカタリ派の末裔が今日なお存在するかどうか、知りたがる人は多いが、私 には、いると思えない。よしんばいたにしても、13世紀の先祖たちとは何の連続もないのである。オード県やアリエージュ県の特定の農民たちの間で、そう自称す るものがあると聞き込むことはあっても、いずれも不確かなことに変わりはないし、本格的な調査をすると霧散霧消してしまう。カタリ派は異端審問の攻撃に耐える ことができず、それ以後は思想史上の問題となったのである。ただ、それが復活再生する力を持っていないという証拠とは、どこにもないであろう。
  - フェルナン・ニール, 渡邉昌美 訳 『異端カタリ派』(白水社)
 

全てが終わったのか?イタリアでは何が起こった?

残された尋問の記録はとても少ないので、私たちは多くを知らない。確かなのは、イタリアのカタリ派は少なくとも15世紀までは微かに生き残っていた。当時の 信者たちはボスニアへ行き、必死に完徳者を探すことを試みていた。オクシタニアの視点では、14世紀初頭の粛正以降、イタリアは十分な数の信者を維持するだけ の避難所とはなりえなくなっていた。新しい信者を獲得できなくなってからは、小さな教会の種は弱まり、そして消えていった。そして、こうして教会が消え、教会 なくして信仰も失われた。そしてとりわけ、信仰なくして教会はない。そして当然、一番の信者であっても、自分自身を完徳者と称することもできない。

オクシタニアやイタリアでカタリ派が消滅した後も、ボスニアのカタリ派は存続し続けたのか?

ボスニアは貴族が支配し、王は古い時代のキリスト教を広め、それはとてもカタリ派の教義と近いものであった。13世紀末以降、ボスニアにはフランシスコ会の 宣教師たちがやってきて、セルビア正教を布教したが、いかなる迫害も起こらなかった。ボスニアでは2世紀の間、カタリ派が主要な宗教であった。中世の終わりに トルコの侵略を受け、ボスニアはイスラム教徒の土地となった。
  - Anne Brenon and Jean-Philippe de Tonnac, Cathares La contre-enquete


カタリ派およびグノーシス、二元論に関する書籍の紹介


カタリ派の城 - 私が実際に訪れたお城を紹介していきます。



カタリ派
個人的にもう少し知りたい方は:
『異端カタリ派』 フェルナン・ニール 渡邊昌美
白水社 980円 が値段、質的にもお勧めできます。

 

カタリ派
その思想を詳しく知りたい方は:
『異端カタリ派と転生』 原田武
人文書院 2,266円 が絶対にお勧めです。

 

カタリ派
このほかにも渡邊昌美氏の記念碑的大著
『異端カタリ派の研究-中世南フランスの歴史と信仰』(岩波書店)

 

グノーシス
二元論については:
『二元論の復権』グノーシス主義とマニ教 S. ペトルマン著 神谷幹夫訳
教文館 4,500円 が大変優れていると思いました。

 

異端
ボゴミリ派については:
『異端の宗派ボゴミール』 ディミータル・アンゲロフ著 寺島健二訳
恒文社 4,500円 が入手できます。

 

カタリ派
中世の異端カタリ派(新泉社)
アルノ・ボルスト=著

 
カタリ派・異端
ヨーロッパ異端の源流―カタリ派とボゴミール派(平凡社)
ユーリー・ストヤノフ=著

 
カタリ派・異端
正統と異端 第一巻:異端カタリ派
著者:Gilles C H Nullens
訳者:高橋健
無頼出版

 
二元論
二原理の書(Cosmic Dualityの翻訳)
Time Life Editors=著
訳者:高橋健
無頼出版

 
カタリ派・アルビジョア十字軍
聖杯十字軍
オットー・ラーン=著
訳者:高橋健
無頼出版

 

グノーシス
ユングとオカルト(講談社)
秋山 さと子=著

 
カタリ派
The Cathars and the Albigensian Crusade

 
異端
Heresies of the High Middle Ages

 
カタリ派
Montaillou: The Promised Land of Error
Emmanuel Le Roy Ladurie=著

 
二元論・異端
The Other God: Dualist Religions from Antiquity to the Cathar Heresy (Yale Nota Bene)
Yuri Stoyanov=著

 
カタリ派
Montsegur and the Mystery of the Cathars
Jean Markale, Jon Graham=著

 

カタリ派
Cathares-Les ombres de l'Histoire

 

二元論
Cosmic Duality (Mysteries of the Unknown)
Time Life Editors=著


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