(from the Proceedings of a Seminar held on 30th November
1976 in Washington D.C. , edited by D'Imperio, moderator)
APPENDIX A
私が初めてマニュスクリプトを眺めたとき、私は主に初めの(およそ)50葉(folios)が草本セクションを作っていると思った。草本セクションの初めの25葉は明らかに一人の筆記者と一つの「言語」で書かれ私はそれを「A」と呼んだ。(それはなんとでも呼べたであろうが、私が初めに出会ったものであったから。)次の25葉かそこらは二人の筆記者がいて、とてもはっきりと少なくとも二人の異なる人間によって書かれたものである。この事実の他に草本セクションの第二パート(つまり次の30葉のうちの25葉)は二つの「言語」があり、めいめいの「言語」は各筆記者によるものである。これが意味するのは草本セクション第二パートには二人の作者がいて、彼らはめいめいが自分の「言語」で書いている。では私が気づいていることを少し考えてみよう。私が使う「言語」という単語は便利であるが、しかしそれはごく普通に使われる意味を持ってはいない。にもかかわらずそれは便利な単語であるから、私はそれを使い続けることを疑問にも思わない。
ではこの情報が利用可能である状態で、私は残りのおよそ210ページを詳しく調査してみた。そして私は「言語」Bと結びついている同じ現象を他の4カ所で発見した。これを続ける前に「言語」AとBの特徴は統計上明らかであることを申しておく。(それらを今ここでお見せすることはできない。スライドを準備していないので。午後のディスカッションでこの議題については詳細に話せるだろう。)違いは明らかで、かつ統計的に重要であるといえば十分である。二つの異なった記号あるいは文字の集まりの連続があり、それにより二つの統計的に識別可能な「言語」が実際に存在することになる。
では簡単に占星術セクションを通してみてみよう。そこでは違いを見つけることはできない。生物学セクション(すなわちこれらの中では女性が特色である
-- 編集者)では全て一つの「言語」(B)と一人の筆記で書かれている。私が違いに気づいた次のセクションは薬草セクションであった。そのちょうど真ん中で、10葉は片方、そしてもう10葉は反対側で、6ページ(2葉がそれぞれ3ページあるように折り込まれている)は明らかに異なる筆記者によるものである。文字は狭苦しく、傾いていて異なる文字があり、それは素人目にも明らかである。この資料での頻度結果は私がすでに草本セクションで得たと同じ発見を支持するものである。そして私たちは薬草セクションで二つの「言語」と二人の筆記者を確認した。マニュスクリプトの最後であるレシピセクションではやや混ざり合っていてきちんとした違いは示さない。たった一葉だけ目立って明らかに他のものと異なる筆記がある。その統計結果は同様に異なる「言語」の存在を支持するものである。
要約すると、草本セクションにおいては私が「草本A,B」と呼ぶ二つの「言語」が存在し、薬草セクションにおいては二つの大きなサンプルがあって、一つ目の筆記は一つの「言語」、もう一つの筆記はもう一つの「言語」であり、それは新たな異なった筆記者によるものである。では異なった「言語」と異なった筆記者が存在するという事実から、実際*たったの*二人の筆記者しかいないのか、それ以上いるのかをもっと調査してみよう。私がたくさんのセクションを詳しく調査してみたところでは二人の筆記者だけではなさそうだ。実際は二つの「言語」があり、おそらく8から12人の異なった筆記者によって書かれた。
これらの区別は若干錯覚があるかもしれないが、多くのケースで妥当であると思う。特に薬草セクションにおいて、初めの10葉の筆記者は真ん中の6ページのものと異なっている。どれくらい信頼のあるものか分からないが、最後の10葉は初めの10葉と同じ筆記である。
以上全てを考慮して、私には最小の場合で4人の筆記者が薬草セクションにいると思われる。これら2つが以前私が草本セクションにあるといったものと違うものなのかどうかは分からない。しかしそれは確かにお互いに違うものである。従ってこの点から*4*もしくは*6*の筆記者がいる。マニュスクリプトの最終セクションはたった1葉だけであり、他の全ての筆記と異なっている。そしてこの1葉の資料の一人はこれを支持する;それは異なっている、著しく異なっている。私は前に見ていたもの全てと異なっていることを確信している。だから合計して5あるいは6から7あるいは8の異なった筆記者をマニュスクリプトの中に特定することになる。これは2つの「言語」と6から8人の筆記者(写字人、暗号職人と好きなように呼べば良い)を数え上げることになる。
これらの発見はこの問題に対して、私が以前に注目した如何なる議論あるいは解決とも完全に異なる状況を作った。私にとって不思議なのは筆記、古文書の専門家が、ある私が読んだ論文["Some
Impressions of the Voynich Manuscript," unpublished notes by Prof. A.H.
Carter (Former technical historian, Army Security Agency), 1946, p.1 --
編集者]の中で、筆記は通して一貫しており、明らかに一人の人間の仕事であると言っていることだ。ところでこれは明らかに誤りであり、どうして訓練された人がそのような主張するのか分からない。しかしそこが決定的だ。
私の複数の「言語」、複数の筆記者の発見に加えて、簡単に2点触れてみたい。これらのいずれも論じられるのは初めてである。最初の要点はマニュスクリプト中の全てのページで本文は行として与えられる。行が機能的単位であると信じさせる3つのものがある。行の始まりと終末の頻度は内部の同じ文字の頻度と著しく異なる。例えば行の初めにはいくつかの文字は現れない。行の始まりの「単語」の最初の音節として期待されるよりも1/100しか出現しないものがある。これはついでながら、大きなサンプル(最も大きなものは一万五千単語)をもとにしており、これらの統計値を信頼するに十分な大きさである。行の最後は多くの場合、意味のない文字があるように思う。いくつかの文字は他の場所では現れることなく、行の余白を埋めるために付け加えられたように見える。例えばどこにでも現れるある文字は85%の割合で行の最後の「単語」の終わりに現れる。もう一つの事実:私は草本セクションと生物学セクションの資料を3台のコンピュータで走らせた。そのうちの全て、約二万五千「単語」で行の最後が次の行の初めまで渡っているのは一つの場合だけではなかった。一つではない。これもまた大きなサンプルである。これら3つの発見が私に、行が機能的実体であるということを確信させた。(その機能が何であるかは分からない。)そしてある文字の出現は行の中で「単語」がどこに位置するかによって決定される。例えば「単語」の初めの文字としては決して現れないある文字は「o」のような文字に続いて出現する。
私が気づいた制限に関係する最後の点は、特に生物学セクションにおける「単語」を終わらせることのできる文字と、次の「単語」を始める文字である。これはマニュスクリプトの他のセクションでも、とくに「言語」Bで起こるが、「生物B」で起こるほど確かではない。[詳しい付録を見よ。]
これらの発見はVoynich Manuscriptの解読に真剣に取り組む誰しものさらなる研究を正当化するのに十分すぎる、と私は考える。私はそれらの解釈を知らないし、解決法を持っていない。私が知っているのはそれらが重要であること‐*超*重要であるということ。このことを考慮しないで本文に取り組もうとする人は危険を無視することになります。それらはそこにあり、非常に明確である。Mary D'Imperioがセミナーの初めに言ったたとえどの形式の一つでも、資料はそのほか全ての事実を考慮して研究を進める前に考慮されなくてはならない。どんな方法によって提示されたテキストもこの統計的なバックグラウンドによってその正当性は判断されるべきである。
これが私が用意してきた全てであります。しかし午後にはあなた方全てがこの点について再検討し、どんな質問も私にして下さい。私は私が話したほとんどの点を立証するであろう、かなり大規模の統計表を持っています。これらは午前中に私が簡単に指摘した4点を再現しています。この中の幾人かはそのコピーを持っています。もしあなたが私の資料のコピーを持っていて、詳しく調査し、午後になにを質問するかを考えておくのなら、午後のディスカッションが実りの多いものになるだろうと思っています。ご静聴ありがとう。
<この中>はEVAを使用。
1. THE NATURE OF THE SYMBOLS.
(記号の性質)
私は拡大鏡でこれらのほとんどの文字を見た。そして私はどのようにしてそれが書かれたのかを知った。<o>,
<d>, <y>,
<s>の全てはCカーブがこの方向[反時計回り]で作られるところから始まる。だから<o>は[初めに<e>が書かれ、次は反時計回りに鏡の像が書かれる。],
<d>は[<e>が初めに書かれ、その頂上から水平方向の線が右へ、輪を作るように反時計周り、左の線の下まで曲線は続く。],
<y>は[初めに<e>、次にCカーブの頂上から下のラインまで下げて終わる。],
<s>は[初めに<e>、次にCの上に曲線を、上昇して反時計回りに描く。],
<i>を片割れに持ち始まる形式:<d>,
<l>, <r>,等。<a>=<e>+<i>である。最初の「C」カーブを含んでいる文字は、同様「c」のように見えるものより先行できる唯一の文字である。例えば<edy>,
<eeedy>。他方<l>や<r>(高い出現頻度である)は決して<e>に続くことはない。その代わりに<a>の後には置かれる。
最後の文字(すなわち私は最後とよぶものも、他のところで出現できる)には二続きあり、一つ目は<a>に続くもので、もう一つは<o>に続くもので、16の連続が与えられている。
n | in | iin | iiin |
l | (il) | (iil) | (iiil) |
r | ir | (iir) | (iiir) |
m | im | (iim) | (iiim) |
カッコ内のものは非常に出現頻度は低いが、他はかなりの頻度で現れる。加えてこれらの記号の組み合わせは―私が「繋がっていない終末(unattached finals)」と呼ぶように、バラバラに現れるように思える。そして大多数の繋がっていない終末は「言語」Bに特徴的であって「言語」Aにはない。
この全てが私に、この乱雑さをどのように作るかを考えるのに様々なアイディアが必要であったことを示唆するものである。我々はあなたが<i>と<e>のこれら二つの記号以外からほとんどの文字を作ることができるという事実がある。それはなにも意味しないが、とても興味深い。
この記号<y>はラテン語の省略CON, CUM, -USと同じであり、それで単語の始めと終わり両方に来ることができる。例えば「continuus」は「9tinu9」と書かれたかもしれない。<y>はマニュスクリプト中で単語の始めと終わりに現れる数少ない記号の一つであり、特に<t>や<k>に続く組み合わせで現れる。この記号は中世ラテン語で使われていた、しばしば始まりと最後に現れるCONや-USに似ていたから、アルファベットを作った人は誰でも<y>を使ったように思える。私はそれがある文字の元になったと考えている。
<d>についてはエトルリア文字、リディア文字、レムノスアルファベットで頻繁にある文字であるが、そこでは音価的に「F」であり「S」でない。中世ラテン語では時々「S」を表す。この記号はこれら他のアルファベットから引用できたはずである。
あなたは<t>, <k>, <p>, <f>系列を除くほとんどの記号にラテン語の省略との類似点を見つけることができる。この<k>という記号は中世ラテン語の省略「timus」と非常によく似ている。最後の二つは最初の二つに単に二番目の縦の線を後ろへ戻す変化を加えただけである。それら(<p>, <f>)は90-95%が段落の第一行目に現れ、マニュスクリプトの一つのセクションでおよそ400回現れる。
あなたは<p>や<f>を<t>や<k>の同じ音価を持つ精巧な形式と結論するかもしれない。これは中世写本によくあるケースで、特に飾られた文字;拡大や、異形、美しくされた場合である。しかしこれは正しくない。これら<p>や<f>の二つの文字は統計的に示されたように、<t>や<k>と同じではない。これら<t>, <k>二つの文字は、冒頭を含む「単語」の中のどこでも、<e>が約1/2の場合で後に続く。(計1500の内750が示す。)これら<p>, <f>はマニュスクリプト中で決して、どこでも<e>が後に続くことはない。これら後者の記号は初めの二つよりかなり低頻度で出現する。しかしそれらは<e>が後に続く頻度はゼロである。(確かに低頻度ですが、私のtranscriptionでは数個<e>が後に続く場合を確認することができます。<pe>は5個、<fe>は4個。)計算する必要がない。したがって<p>, <f>は<t>, <k>の異形・異字体ではなく、正しく分離した文字である。マニュスクリプト全てを通してこれは正しい。それはマニュスクリプトについて奇妙なものの一つである。二つの「言語」があり、それらは明確で疑い得ない。しかしこの特徴は一つの「言語」からもう一つの言語まで続いている。それは付加的な情報であり、その真偽のほどは分からない。
質問 (D'Imperio):<t>, <p>といった二つの輪を持つ場合、それらは分離でき、そして一つの端は別の単語の真ん中、たとえはテーブル<ch>の上へしばしば降ろされるのではないですか。
Currier:それはこれら輪のある文字を省略して書く方法かもしれない。それは私を悩ますほどそうしばしば起こらない。(例:<choy
chdy>)
行の最初と最後では対称的でない頻度結果を得た。例えば、<ch>と<Sh>を取り上げてみよう。(この<ch>という文字は実際に<c>と<h>から作られた。)この統計結果は「草本A」からのもので、約6500単語、1000行、平均して一行は7単語からなる:
"word"-initial symbols | total frequency
as "word"-initial |
expected in any "word" | actual, in
first "word" |
<cht> | 118 | 20 | 3 |
<chot> | 212 | 38 | 26 |
<Sht> | 24 | 4,5 | 0 |
<Shot> | 45 | 10 | 10 |
もし語頭の出現がランダムであったとすると、行の中の1/7の単語確率で現れることが期待できる。実際には<o>が挿入されている場合を除き、行の最初の単語の語頭としての頻度はとても低いものである。ところで、これは「言語」Aだけに当てはまる。「言語」Bでは単語の語頭に現れる頻度は低い。(<chot>は草本Bではたったの5回。しかし草本Aでは212回である。)
次に私が話すことは<t>, <k>,
<p>, <f>系列の「合字(ligatures)」についてです。それらはところで<ch>の上に<t>が書かれて作られます。草本Aにおいて、いや全てのAに関して、この系列は語頭に多く見られるが、Bに関してはとても低頻度である。--この二つの「言語」を識別するもう一つの方法である。草本Aにおいて語頭の出現頻度は次の通りである:
symbol | all "word"
initials |
first "word"
of line |
<cTh> | 326 | 3 |
<cPh> | 67 | 1 |
<cKh> | 82 | 0 |
<cFh> | 14 | 0 |
これらの「合字」は完全ではないが、ほとんど<ch>, <Sh>のようにふるまうと考えられる。それとは対照的に、<t>, <k>, <p>, <f>の後に<y>, <o>, <a>, <ch>が続こうが、そうでなかろうが、これらはどちらの「言語」でも段落や行の最初にある場合と同じくらい高頻度で現れる。「合字」は段落の最初には決して現れないし、行の最初にもほとんど現れない。
したがって<cTh>, <cKh>やそのような記号はそれ自体で独自のものであり、<tch>や<cht>等と同じものではない。これら統計的結果を考慮して、私は独自のアルファベットを作った。できる限り私はそれを限定し、文字を合字ではなく独自のものとした。
ある「単語」の終わりが、次の「単語」の始まりに及ぼす効果。私がいくつかの「単語」の終わりが、続く「単語」の最初の記号に、明らかにそして統計的に大きな効果を及ぼしていることを述べたのを覚えていてくれていると思う。これは「言語」Bで、そして特に「生物学B」に限られて見つかるものである。ここに例を挙げる:
"words" ending in: | Next "word" begins with: | ||
<qo> | <l> or <r> | <ch> or <Sh> | |
<l>に続く | 13 | 7 | 91 |
<r>に続く | 10 | 2 | 68 |
<n>に続く | 23 | 0 | 275 |
<y>に続く | 592 | 184 | 168 |
<y>のような記号はしばしば「単語」の終わりに現れ、<qo>で始まる「単語」が約4倍の頻度で続く。これは事実であり、それは「生物学B」の20ページ全てを通して真である。このマニュスクリプトを調査する人は誰でも考慮しておかなくてはならない何かである。これらの現象は、一貫していて、統計的に重要であり、それらが見いだされるテキストのエリア全体を通して真である。もし我々が単語や句、接尾辞が存在する言語の構文を扱っていないとしたら、この種の現象の非言語的説明を考えることができる。単語の接尾辞が次の単語と関係がある言語など私は知らない。
(この時点で、Captain Currierの発表は終わり、そして聞き手からの質問があった。次に続いた長くそして興味深いディスカッションが、録音テープから起こされた。それがこのノートの次のセクションを構成する。
質問(発言者は特定されない):あなたはどのようにして完全な単語の繰り返しを説明するのか?
Currier:それがまさに核心です。それらは単語ではないのです!
Child:私はあなたがそれが起きないと言うことができるとは思わない。さて、多かれ少なかれ一貫した標準の言語システムを持った言語ではそれは起こらないかもしれない。しかし書記が不明瞭な発音と発音の省略がある速いスピーチに気づいているときには文法という事実よりも、それが起こる。ある単語の終わりの音は次の始まりの音に影響を与える。
Currier:これだけではない。
D'Imperio:暗号の一部分もしくはある特定のページからの単語が、優先的に暗号の、ある特定の場所の単語と結合するときに、それは、暗号あるいは人工言語といったシステムのグループの制限と関係があることを示唆するのか?
Currier:その通り、正しい。
Valaki:隣接する、前の単語の終わりの音によって変えられている、ある単語の初めの音はどうであるのか?これはいくつかの言語で起こっている。(ギリシャ語からの例。テープでは聞きとれない。 --編集者。)
Currier:この範囲で起こるとは思えない。
どなたか私の「生物学B」コンピュータ結果を見た方はいますか?
D'Imperio:私はそれを見ていない。--どうしてもコピーが欲しい。
Currier:「生物学B」はとても制限され、統計上の見地からもとても興味深く、最も興味深いものである。(いくつかの例。テープが鮮明ではない。)私は家に全ての統計表のノートを持っている。私が調査を望み、そしてテキストの限られた場所の様々なサンプルを要した。でも私は本当に興味があれば自分でするべきであると思う。これらは正しい結論のための最も良い証拠である。もしあなたがいくつか特定の記号の値を仮定することを望むなら、それを試し、なにが起こるかを指標で見ることができる。ある特定のこともまた、これら統計が新たな理論の証拠を与えると受け取ることを生じさせるのだろう。もしあなたがこれら全ての統計を基礎理論の基礎的な背景の証拠と見なすなら、あなたは確かめることのできる仮説で、どちらかといえば仮説で始め、次にそれを支持する証拠を探すという結果になることができる。この統計上の背景はこの文書に取り組む誰もが気づいていなければならない類の証拠である。それはあなたが資料を比較し、仮説を確かめる際にあなたに何かを与えるでしょう。
質問(発言者は特定されない):単語の長さの研究はあったのか?
Currier:特にない。
私はその全てを家にある。しかしそれは私に何も示唆しなかった。
D'Imperio:私は単語の長さを部分的にごく小さな規模(一五〇〇〇文字)で行い、7,8より長いものや2より短いものをほとんど見つけることができなかった。しかし実際ちょうど2の長さのものはたくさん存在する。(例として「草本A」、「草本B」から挙げる。テープでは聞き取れない。--編集者。)ある特定のグループ(Bの中よりAの中で異なった資料)では一列の中で4回繰り返される。それらは数でなければならないであろうし、それ以外は考えられない。もしあるものが「草本A」で「ゼロ」であったのなら、「草本B」では他のものが「ゼロ」であるかもしれず、これはあなたがあなたの人工言語システムで調べるべきことである。ところで、私はそれを信じないが。
この私の統計データは利用可能である--私のノートと観察。これは私の知る限り、どの言語的データの簡単で単純な解読になり得ないこと以外、真の結論に到達しなかった。私が知る限り、どこかに中間のステップがなければならない。
質問(発言者は特定できない):あなたはめいめいの行が分離した文であるといったが。
Currier:多少いらだつ事情があります:<ch>で始まる単語は行の最初には決して存在しません。行の最初の位置の<ch>の前に現れる文字に私は1〜10までの数字を試してみせるかもしれないと考えたが、それは上手くは行かなかった。しかしこの種のことによって、行が機能的な実体である様に見える。それが私を悩ますことである。私にはデータを解釈できない!
質問(発言者は特定できない):それはマニュスクリプト全てを通して真実であるのか?
Currier:はい、基本的には真であるが、特に「生物学B」を除いて。
D'Imperio:それには記号の組み合わせに非常に強い制約があるように思われます。ごく限られた少数の文字が「単語」のある場所でそれぞれの文字と一緒に現れる。
Currier:その通り。
(例はテープでははっきりしない。--編集者。)
ところで、もし誰かがこれ以上のテキストを書き写すのなら、私のアルファベットを使ってもらうのがいいと思う。そうすれば我々は全てのデータと結果を一つに合わせることができる。
D'Imperio:私はCaptain Currierのアルファベットと並びの分類のコピーを持っている。
Currier:あなたは並びの分類を気にする必要はない。
私が初期に作業していたときには、それを支持する特別な理由があったが、しかし今あなたはそれを必要とはしない。私は例えば、「配合表(Recipe)」セクションにおける問題を誰かにもっと扱って欲しい。だが筆写(transcribe)を行う際には注意深くあるべきである。それが何の文字であるかを決定しなければならず、そしてコツを飲み込むまで練習を要する。
Miller:私は今朝のマリー(・ディンペリオ)の紹介に関係することを話したい。そこで彼女は私の名前をマニュスクリプトが無意味であるとの理論と結びつけた。私は「無意味ないたずら書き」という表現には反対したい。なぜなら私はこれを目的はあるが不明瞭な著作であると思っているからであり、いたずら書きというのは単純に消え去るべきである。
D'Imperio:しかし私はこの理論が私たちが解読を試みた状況に於いては、マニュスクリプトは無意味であると見なす理論である、という点を強調しただけである。
Miller:意味は回復不可能である。もしそういう考え(マニュスクリプトの意味は本来的、本質的に回復不可能であると考える人 --編集者)があるとして、私を除いて他に誰がいるだろうか?
D'Imperio:かなり近い考えをする人が若干いる。例えばDr. MacClintockであり、ほとんど完全に回復不可能と考えていると私は思う。
Miller:これはテキストの注意深い分析を基に議論されたのか、それとも単に読めないからということなのか?私はこれがでっち上げ(hoax)であるとは思わない。しかし(意味が回復不可能である)という理論の細部については与えられなかった。私はそれをもっと読んでみたい。
D'Imperio:私はそれが解読を試みている一部の人を落胆させ、いらいらさせる原因ではないかと考る。そして彼らは「あぁ、何なんだよ!このような奇妙な繰り返しとそんなものが何かを意味することができるのか?」と言うことになってしまう。
Miller:しかしCaptain Currier, Brigadier TiltmanそしてMr. Friedmanの統計では -- 誰にも(答えは)与えられなかった。
D'Imperio:問題はどうやって何かが無意味であること、あるいはその意味が回復不可能であることを証明できるかだ。それは、あなたや他の誰もが今までに考えてきた特定の確かな解読理論全てを反証した後残るものだ。しかしもっと良いものが常に現れる可能性がある。(編集コメント:もし我々がテキストの意味が取り戻せないことを証明するには、(1) 確かに観察可能な基準を証明する理論、または回復可能な意味を持っている文字列が持っていなくてはならない特徴があり、そしてこの特定のテキストがそれらの基準を示さないという証明をすること、もしくは(2) 回復不可能な意味を持っている文字列が持たなくてはならない確かに観察可能な基準を規定している理論、そしてこの私たちの前にある特定の文字列がこれらの基準を示すことを証明することが要求されている。これはテキスト文字列の意味論上の「非計算」あるいは「非決定」理論を形成するであろう。これは可能であろうか?現状では、大いに疑問である。それに、それは今以上に、それらを探求する資格を持った誰かからの、注目に値するいくらかの大いに面白い哲学的な質問が起こってくる。もちろん様々な種類の「心理学的ランダム」の特徴のテストがあり、それはどんな意味上の、あるいは回復可能な意味を持った言語的構造がテキストを作り上げたのかという仮説を強力に支持するものである。これらのテストと仮説はヴォイニッチのテキストに適用されるべきである。)
Valaki:しばらく前に私は家具店でついたてが売ってあるのを見た。それは4枚のパネルからなるついたてであった。一つのパネルはギリシャ語の作品であって、イッソップ物語であることに気づいた。2番目のパネルを読もうとしたとき、私はそれが何の意味も持っていないことに気づいた。何とも一致しないのだ。最終的に私はそれがギリシャ語の単語を無作為にコピーしたものだと気づいた。3番目のパネルはただギリシャ語の文字が書かれているだけ、4番目はギリシャ文字のイミテーションが書かれていた。
D'Imperio:それを買っていたら良かったのに。なんて美しいテストケースか!我々はそのいくつかの頻度をカウントすることができたのに。
Valaki:それはたぶんヴォイニッチのようである。それが純粋にコピー作品であることが分かったはずだ。
D'Imperio:それでもドリスの観点に戻って、我々はそれをどのように証明することができるのか?いいですか、あなたがついたてについて理解した方法、つまり他のパネルが無意味であったという事実は、あなたがギリシャ語を知っていて、一番目の物語を読んだからです。それからあなたが他のものを見たとき、デタラメに気づいた。
Valaki:私はギリシャ語をすっかり忘れてしまったのかと思った。他の何とも一致しないし、単語も一致しなかった。それに取り組もうと少し後ろに戻った。
D'Imperio:では、ヴォイニッチについては私たちはどの部分も、どの程度も読めないという状況ですし、それは我々が今までに見てきた何ものとも似ていません。私たちは無意味であることをどのように示せば、証明できるのでしょう?
Miller:あなたは証明する必要はない。
Currier:誰も試みなかった、知っているわけではないが。
D'Imperio:いいえ、私は今までに見たことがあるというわけではないが。
Currier:それが「いたずら書き」であるはずがないとの証拠は、その製作には最小6人の人々が関係しているからである。少しの疑いもなく4人は証明できる。私は古文書学者ではない、したがって、私は審理の場に立って古文書学者から自分自身を守ろうとはしないであろう。しかし私は特に草本セクションでは確信をしている。私はこのようなことが起こったと想像する。およそ65葉はすでに絵も描かれ先に用意ができていた。それはテーブルか何かの上へ置かれた。最初の25葉はひとつずつ上から取り外され、そして一人の人間によって書き込まれた。この25葉を書き込んだところで彼はとても疲れてしまって、助けを求めた。もう一人が同じテーブルの彼の反対側に座った。彼らはひとつずつそれを外し、彼自身の「言語」で作業を行い、一方もう一人はもう一つの彼自身の「言語」で行った。そして二束目を完成させ、それらを綴じ込んだ。一人は彼のやり方で、もう一人は別のやり方で行った。それらが完成されたとき、草本セクションが得られた。
質問(発言者は特定できない):ページナンバーは正しいものだと思いますか?
Currier:はい。ページナンバーはオリジナルのものであると確信しています。
質問(発言者は特定できない):消した痕が無いという事実についてはどうでしょうか?そのせいで写された作品だと思われていますが。
Currier:写しに違いありません。ではどのようにひとつの作品から同時に二人の人間が異なった二つの「言語」を作るのでしょうか。私は彼らがまさにそこに座っているのを見ることができます。私はこの方法で行われたと確信しています。羊皮紙は前もって絵が描かれた状態で用意されていました。ときおり文字が絵に多少重なっています。草本セクションの絵は一人の人間によって書かれたように見えますが、私はこれを証明できません。1〜25葉までは一人の人間が文字を書きました。25〜65葉までは二人の人間が行い、一人の人間は多少作業を早く行いました。(一回目を行った人が2回目を多く行いました。彼は作業に慣れていたからです。)
Buck:何ページかが失われ、表紙もなくなっていることが報告されています。この理由については何か考えていますか?
Currier:いいえ、特にないです。
Miller:誰かがきれいな絵を剥ぎ取ってしまったのだ!
Currier:じゃあ、彼はたくさんのきれいな絵を置き忘れたんだ!
D'Imperio:失われたフォリオのひとつは12星座の山羊座と水瓶座です。誰かの星座だったのかもしれない。
質問(発言者は特定できない):新しい筆記者に変わると、記号の書かれる形式に変化は確認できますか?
Currier:はい、しかしそれは筆記全体の印象です。一般に例えば「草本A」では、筆記は直線的で、丸みを帯び、十分にスペースがあり、きれいで、はっきりしていて、余分なものはくっついていません。対照的に「草本B」では斜めに上がっていて、窮屈な筆記である。それは私に明らかである。私が個々にカウントする前に、マニュスクリプト全体を見て書き留めたことは草本セクションにおける筆記の違いである。初めは目で見てページを分けて、次に2つの分離できる筆記の10ページをサンプルとして別々のカウントを取った。私には明らかであった。--そう、私の選別は正しかったのだ。それは十分にコントロールされた手順であり、これらの結論は正しいものだと考えることとなった。誰もがページを横にして見るだけで確認できます。私はページが正しい順番なのか証明はできませんが、しかしそう感じました。占星術セクションでは、星座は正しい順番です。
D'Imperio:ページの合わせ方にある証拠があります。--およそ8葉ごとに現れるページの角についている数字です。それらは少なくともマニュスクリプト初期のフォリオナンバーと一致するでしょう。それらはまた数字のいくつかの比較的早い形を示します。これはいくらかのページは少なくとも正しい順序で並んでいることのいくらかの証明です。
Buck:私は失われたページがどこにあるのかを...
D'Imperio:いつの日か、誰かの文書の中で姿を現すでしょう!
THE VOYNICH MANUSCRIPT
Some Notes and Observations
October 1976
1. The matter of 'hands'(複数の筆記者の問題)
草本セクション(pp 1-112)初期の研究ですでに気づかれたことは、いくつかのペアとなった隣り合ったフォリオで、そこに書かれた記号がはっきりと変化するのを、素人でも確認できることだ。簡単な頻度を取っただけでも、これらフォリオのテキストを資料とした統計の結果は、同じく有意に異なっている。さらなる調査としてセクション中の全てのフォリオを調べると、全てのセクションを通して2つの異なった「筆記」が現れ、それぞれの「筆記」はそれぞれの「言語」で、以下言語AとBと呼んだ。マニュスクリプトの残りのセクションの筆記者を調べるこの証拠から、次のことが分かった:
(a)占星術セクション(pp 113-146)ではいくつかの明らかに「外国語」の記号を除いては、全てのフォリオで筆記に大きな違いはないように思われる。「言語」はずっとAであるが、草本Aで見つかったような顕著な「A」の特徴はない。
(b)生物学セクション(pp 147-166)は単一の筆記で書かれ、強くはっきりとした統計的特徴から全て言語Bであるように思われる。このセクションの言語はより制限を受けていて、マニュスクリプト中の他のセクションの言語Bよりおそらく「規則的」である。これはおそらくこのセクションが一人の人間によって作られた結果である。
(c)薬草セクション(pp 167-211)で、pp167-173とセクションの真ん中の2葉(pp 193-198は言語「B」であり、これ以外の残りは言語「A」である。ここでの面白い点は、草本セクションのようにひとつの「筆記」がそれぞれの「言語」に対応するといった、期待される2つ以上に「筆記」があるらしいという事実である。真ん中の「B」の筆記(pp 193-198)とその周囲のフォリオ(pp 179-192; pp 199-211)の違いは明らかで、容易に見分けることができ、初めてマニュスクリプトを簡単に調べたときに気づいた。しかし言語「B」の最初のフォリオ(pp 167-173)とpp 193-198が同じ筆記なのか、または言語Aのフォリオ(pp 179-192とpp 199-211)が一人の人間によるものなのかは全くはっきりしない。加えてp 174は言語「A」であり、筆記は薬草セクションのどれとも異なっている。
ニューボールドのページ付けではff85-86まで生物学セクションが広がっている。そして絵からは薬草セクションはf87まで始まらないように見える。しかしf84/f85の段落途切れの前と後の頻度を数えた結果は生物学資料から他の何かへの変更を示している。例えば終わりの<ody>は生物学Bテキストでは現れないが、ff85-86ではかなりの頻度で出現して、薬草「B」テキストff94-95のこの終わりの頻度と一致する。ff85-86の筆記はff95-96のそれと同じではないことは確かであるが、生物学Bの筆記と違うものかは確かでない。合計で、思い切った推測をすれば、少なくとも3人、おそらく5,6人の異なった筆記者がはっきりとこのセクションには存在する。一方で他の「筆記者」などというものは、幻想に過ぎないのかもしれない。
(d)配合表セクション(pp 212-234)は他のフォリオと明らかに異なった筆記はたったの一葉しかない。この相違は統計的証拠によって支持される。セクション全体の「言語」は「修飾を受けたB」である。(つまりある「A」の特徴を持っている。)配合表セクションでは、いくつかの見分けにくい筆記の変化があるらしいことも指摘する価値があったかもしれない。これらが確かな違いであるはずはないのだが、問題のフォリオの頻度結果はわずかにこれを支持するものである。
「言語」という単語はここやこれらのノートを通してとてもおおざっぱに使われているということを話を進める前に指摘しておかなくてはならない。それは二つのセットの顕著な統計的な違いを暗示しているに過ぎない。それは基礎となるどんな言語の存在も意味しない。しかし便利であるからそれは使われ続けるだろう。
上の一段落で以前述べられたように、草本セクションには言語「A」と「B」の両方がある。このセクションにおける二つの「言語」の主要な相違点は:
(a)終わりの<dy>は言語「B」ではとても高頻度である。言語「A」にはほとんど存在しない。
(b)記号群<chol>と<chor>は「A」でとても高頻度で、しばしば繰り返される。「B」では低頻度。
(c)記号群<chain>と<chaiin>は「B」ではほとんど出現しない。「A」では普通くらいの頻度。
(d)先頭での<chot>は「A」で高頻度、「B」ではほとんどない。
(e)先頭での<cTh>は「A」でとても高頻度、「B」ではとても低頻度。
(f) 「繋がっていない」終末(Unattached finals)は言語「B」全てを通してかなり多数バラバラに現れる。一般的に言語「A」ではほとんど見ることはない。
これらの特徴は、もちろん局所的な「主題」の影響を暗示する偏差があるけれども、一般的に他のセクションでも見いだせるものである。
草本セクションでの二つの「言語」の発見はこの資料を書き写し、インデクッスをつける主な理由であった。表向き同一の主題を扱っている草本AとBテキストを、比較の技術を用いて、「筆記のシステム」の性質の手がかりを得られるかもしれないと期待された。結果は完全に否定的であった。平行構造、およびこの点に関する他の有用な証拠はなかった。そしてこう結論付けるよりほかなかった。(a)我々はデータの「言語的」記録を扱っていなかった。そして(b)絵は付随しているテキストとほとんど関係がなかった。「A」と「B」テキストが見いだせるマニュスクリプトの他のセクションの研究もこの結論を変えることはできなかった。
さらに、これまでのところ、どんな「単語」の連なりも区分け、あるいは文法的に分類する事、そして基礎をなすテキストの、認識できる統語論上の配列を示唆するどんな使用パターンを見分けることも不可能であることが示された。さらに重要なことは、私が仮の数値を割り当てることのできたどちらの「言語」でも私には「単語」か個々の記号かを識別することは不可能であった。どんな筆記体系(もしくはその単純置換)であっても、上記の特徴のひとつあるいは両方ともに反しないであろうことは、全く私には信じがたく思われる。
この「単語の終わりの影響」は初め生物学Bの研究の中で明らかになってきた。そこでは「単語」最後の記号が、続く「単語」の最初<qo>は<y>に大きく制限され、そして<iin>や<l>の終わりに続くことで期待されるよりも遙かに<ch>や<Sh>の頻度が多くなることが指摘された。さらに、<ch>や<Sh>を始まりに持つ「単語」は期待されるよりかなり低頻度でしか、行の最初の位置に現れない。これは「最初に無い」ものに続く構造であるからだろう。
この現象はマニュスクリプトの中の他のセクション、特にこれら言語Bで書かれたもので起こるがしかし、確かに生物学Bでは起こらない。この点に関して言語Aテキストは期待値にかなり近い。
私はこの現象について、言語学的もしくは他の解釈は思いつかない。もし私たちが「単語」を扱っていると想定するなら、屈折語尾(inflexional
endings)は確かにこの効果や、他のいかなる文法的な特徴も持たないことを知っている。しかしもしこれらの単語が現れる要素が他の何か、音節、文字、ディジットなら、おそらくこの種類の制限が起こるだろう。
3段落で述べたように、<ch>や<Sh>で始まる「単語」は行の最初では期待はずれに低い。(期待値の平均は1/10である。)他の「単語」、特に<dch>や<ych>等を最初に持つ「単語」では、この位置では期待されるより高頻度である。<ch>を初めに持つ「単語」は行の初めで使うよう適切に修正されている。行の終わりにある記号群は、しばしばテキスト本体のものと異なる外観を持ち、穴埋めのようである。さらに、ある行の終わりが次の行の初めまで続く繰り返される単語の繰り返しはこれまでのところ、一例しか報告されていない。
全体的に見て、これらページのテキストは線状の配置を持ち、行は独立した、まだ発見される機能を持ったユニットであると想定しないことは難しい。