概略
イースター島(現地名はラパヌイ)はその(モアイ)像と独自の文字体系を持ったロンゴロンゴ文字で知られている。それらは宇宙人からの訪問者が残していったものであるなど、常軌を逸した様々な仮説を提供し続けている。そのために短い紹介をしておこう。
イースター島の住人はポリネシア人種であり、考古学者達は起源400年ごろ初めて(移住者が)到着した見積もっている。島の存在は18世紀まで知られていなかった。しかし1864年12月フランス人宣教師 Eugene Eyraud が手紙の中で何百枚もの象形文字が書かれたタブレット(木版)の存在について記載している。その4年後、タヒチの司教 Tepano Jaussenはたった5つのタブレットしか持ち帰ることができなかった。現在では博物館や、個人の収集としてたったの二十一個が存在するのみである。文字は異常である。とても小さく、ごく普通のシンボルは、だいたい1 cm位、高度に様式化、形式化されていて、タブレットに沿って(縦にはじからはじまでずっと)浅い溝が彫ってある。言い伝えによると、筆記者は黒曜石のナイフや、鮫の歯を使いシンボルを刻んだということで、文字は最初の移住者 Hotu Matua(ホツ・マツア)によってもたらされたものとされている。残された、しかし少なくはない、二十一個の現存するタブレットのなかで三つのものが、わずかに異なった“スペリング”で同じ文章を持っていた。この事実はサンクトペテルブルク(現レニングラード)の三人の学生が、第二次世界大戦の少し前発見した。1958年には Thomas Barthel がイースター島の大全『Grundlagen zur Entzifferung der Osterinselschrift(イースター島の文字解読の基礎)(1)』を完成させたが、残念ながら英訳は出されていない。それから40年が過ぎようとした今でもイースター島のタブレットは、そんなわけで謎のままである。1958年に Barthel に特定された2行半の線状のカレンダーを除いて、未だに意味は解読されていない。
タブレットの発見
では物語を最初のタブレットの発見まで戻してみよう。これに関して私は Catherine と Michel Orliac の素晴らしい書『Des dieux regardent les etoiles(2)』(英語版は"Gods gaze at the stars", No.38 in Gallimard's paperback series "Decouvertes"である。)を引用するのが最もよい。
「1868年新しくキリスト教に改宗したイースター島人たちはタヒチの司教Tepano Jaussenに敬意の印として古代の木に巻き付けられた、人の毛で作った長く編まれた糸を贈った。Tepano Jaussen は贈り物を調べ、糸を持ち上げ、そして象形文字が書かれた小さな板を発見した。」
司教はその発見に意気揚々としながら、イースター島にいる Hippolyte Roussel 神父に手紙を書いて、集められる限りのタブレットを集めること、そしてそれらを翻訳できる現地人を見つけだすことを強く勧めた。しかしSuperior神父による聖心(Sacred Heart)の集会についての報告があったときよりもほんの数年前にEyraudが記載した何百ものタブレットの内のほんのわずかの残り物が見つかっただけであった。人々は宣教師に(それらは)異教を信じていたときの邪悪な遺物であるから燃やすように勧められたと語った。ある人はそれらがバラバラにならないように隠したと言った。われわれは一体そのどちらを信じればよいのだろうか?Eyraudは1868年にタブレットについては、彼の友達のZumbohm神父に司教の発見に対する非常な驚きを与えること以上なにも残すことなく死んだ。Jaussenはすぐにタヒチにいるイースター島からの労働者でタブレットを読めると言ったMetoroを突き止めた。彼はノートにMetoroがめいめいのタブレットのスタートを決めるために回りながら折り返し、内容を読み上げる様子を記している。文字の方向は変わっている。左はじの一番下の角から始まり、その行の一番右まで行く、そして折り返して次の行を読む。(今度は右から左へ)実際に象形文字の方向は一行ごとに逆になっている。全ての行が後ろから前へ、そして逆さまに印刷された本を想像してみて下さい。
Jaussenの解読への試み
Jaussenは彼が所有する4つのタブレットをMetoroに読ませ、そのくじかれながらの仕事を書き留めた。
彼はすぐに落ち込んでしまった。Metoroの読みは意味をなさなかったからだ。「彼は貫き通した。それは王様だ。彼は水に入った。男は果物がなっている木に寄りかかって寝ていた。柱は立てられた。等々」しかしJaussenは望みを捨てることなく、忍耐を持って読み上げられたものと、それに対するコメントと、象形文字とを一致させながら書き留め、それらは300ページある彼のノートの230ページを占めた。これは残念ながら出版されてはいない。象形文字のコピーは当時とても費用がかかったことだろう。しかし今日では...(コピーは簡単だから)これを読んで興味を持った出版業者はいますか?
数百の象形文字がひとつの表になったものがいつの日か出版されるだろう。それは不成功に終わった解読を元にした有名な「JAUSSEN LIST」として。
Thomas Barthel
1958年に突然すごいニュースがあった。ドイツの暗号学者Thomas BarthelがScientific American6月号上"The 'Talking Boards' of Easter Island"(3)という題名の論文で(解読の)成功を発表した。しかし彼は数個の記号からなる短い部分についてのみ発音と意味のおおまかな概略を示しただけであった。長い間待ちこがれていたタブレットの翻訳は実現しなかった。学者達は待ちきれなくなっていった。1964年の"The American Anthropologist"2月号(4)ではMulloyとSkjolsvoldとSmithがBarthelに対し少なくともひとつのシンボルの翻訳を示すように要求した。無意味だ。何たることだ。Barthelは優れた成果を"Grundlagen zur Entzifferung der Osterinselschrift"の中で残したではないか。彼はほとんどの記号とそれらの組み合わせを参照する際の数字のコードを発明した。彼は2行半のタブレットを確かに太陰暦のカレンダーだと証明した。彼は本の中で全てのタブレットの象形文字を正確に描いていて、それは研究で使用する際に写真よりも遙かに使いやすい。ではどうして彼は皆に認められる解読に至ることができなかったのだろうか?
Metoroの読み上げ
BarthelのロゼッタストーンとなったものはMetoroの読み上げをJaussenが記録したものであった。あなたがもしザッとでも「JAUSSEN
LIST」を見れば、すぐに気づくことだけど、Metoroは彼が見たものを口述したにすぎなかった。たとえばあなたが私に「shown」という単語を示そうとするとき、「ホック(s)」、「椅子の背もたれ(h)」、「穴(o)」、「尻(w)」、「ズボンを下ろす(n)」とか言うだろ。この証拠からあなたはシェークスピアのソネットを解読しようとするかもしれない。
ではMetoroからの情報全てを退けるべきであろうか?その必要はないだろう。おそらくMetoroはその象形文字をどのように発音するか、そしてどんな意味かを知らず、単に書き方だけを知っていたのであろう。つまり、もしあなたがその意味や発音の仕方を知らず「cat」という単語を示す場合「シー、エー、ティー」と言うだろう。これならば数人の考古学者が報告する「現地人に同じタブレットを読ませても、それを違う日に読ますとその人は異なることを言う」をうまく説明できる。私たち自身もそれを変えないでしょうか?私たちは大文字Cを「capital
C」とか「uppercase C」、0を「ゼロ」もしくは「オー」と言います。イギリス人は「ダブルエル」、アメリカ人は「エルエル」と言う。そして同時に考古学者たちが報告するように、現地人の読み上げる人はタブレットの写真を変えても疲れることなしに日暮れ過ぎまでやっている。もしあなたが単に文章を文字ごとに(象形文字ごとに)読み上げるのならば、それが何であれ、言語であり、アルファベットが同じならばどんなものでも問題ないわけだ。
他の解読の試み
ここでその全てを紹介することはとても多すぎてできない。そのうち二つを紹介しよう。
Carrollの解読
1892年Journal of the Polynesian Society誌はシドニーの医師Carrollの解読を掲載した。それはまさにハガード(H. Rider Haggard)の小説『She(邦題は洞窟の女王)』をアンデスに移したようなものであった。インカ帝国のアメリカインディアンが巫女と結婚し、そして噴火する火山や無数の災害から逃げ、イースター島で終わる。その物語は雑誌中に2カ所掲載された。そしてどのようにして翻訳に至ったのか、どのように象形文字の意味のリストを作ったのかを尋ねられるとこの名医はシドニーの医院に逃げ込み、再びその意見を聞くことはできなかった。その後しばらく雑誌の中で困惑の沈黙が聞こえた。
Fischerの解読
1995年Journal of the Polynesian Society誌はFischer博士の論文を掲載(5)し、そこで彼はタブレットの性質を決定したと発表した。「何々と何々が合体してこれこれが生まれる」となる発音の形式がある。この発表の後、フランスのタブロイド誌VSDから果てはネイチャー(18 January 1996(6))のような高級誌まで広まった。Fischerの主張はCarrollのものより詳しく考察してみるだけの価値がある。
Fischerの主張
Fischerはサンティアゴ棒(Santiago Staff)の中で「男性器の接尾辞」と呼ばれる付加物からなる記号が三文字ごとに現れる強い傾向を見つけた。(下の図中で輪郭を黒くなぞり、中を黄色く塗った部分。)彼はこの付加物を、Thomas BarthelがMetoroに読ませた象形文字の「勃起した男性器(tangata ure huki)」であるとした。彼はSantiago Staff全体ではっきりと3つ組パターンが繰り返されると結論した。
そして1886年には事情に詳しいアマチュアの研究家William Thomsonが十一日間イースター島に滞在しプロの研究家に匹敵するような多数の信頼できる優れた報告を集めた。その中で「Atua
Mata Riri (God Angry Eyes)」で始まる朗読が知られている。それは四十八の詩からなりそのうちの四十一はこれこれの神様と、これこれの女神が合体して、それによってこれこれの動物、植物、自然現象が生じるというものだ。Fischerはこの類似により、そして面倒なことは無視して3つ組の初めの文字を入れる方(copulator)「男根」、2つ目を、つまり彼はひどい言葉を作り上げたわけだが、入れられる方(copulatee)、3つ目を子供(offspring)とした。しかし第一にFischerはSantiago
Staff中のたとえ一部分でも解読したわけではなく、そしてたとえ離れている場合でもAtua
Mata Ririの四十一の詩のようにように読んだ。第二に、彼は3つ組の記号の解読を発表したわけだが、しかしこの解読は言語学的側面からは破格かつ文法違反であり、そして文化的側面から見ても、ポリネシアの口承文学と矛盾し信じられないものとなっている。
Fischerのただ一つ出された解読
この「te manu mau ki'ai ki roto ki te ika, ka puu te ra'aa」をFischerは「all the birds copulated with the fish, there issued forth the sun.(全ての鳥たちは魚と交わりそして太陽を生む)」と翻訳した。(te: the, manu: bird, mau:all, ki'ai: copulated, ki roto ki: inside, ika: fish, ka puu: spring, te: the, ra'aa:sun)
まず第一にFischerも認めているように、イースター島や他のポリネシアの神話にもこんな話はでてこない。第二に鳥が魚と交わるというのはイースター島やポリネシアの民話では異質であり、創造主や親は神や女神であり動物ではない。第三に「mau」はイースター島の言葉で「all」を意味するとは証明されていず、それはタヒチ語の複数形を示すものを借用したものであり、そしてそれは常に名詞の前にある。(つまり「te mau manu (the birds)」のようにつかい「te manu mau」とは用いず、この場合タヒチ語の意味は「true birdもしくはbird proper」になってしまう。
Fischerの方法の欠点
論理学に明るい読者であればFischerの解読の主張が排中律と呼ばれる理論の根本的な欠陥であることが分かると思う。すなわち「犬は4本の足を持つ。テーブルも足は4脚だ。従ってテーブルは犬のようにしっぽを振ったり、木にションベンをかけたりする。」似たようにSantiago Stuffには3つのグループからなる記号がある。朗読の中で3つのグループが主である。したがってSantiago Stuffは「Atua Mata Riri」と同じようにどのように動物や植物、自然現象が生まれてきたかを示す物語が書いてある。
Fischerの誤謬はこれだけでとどまらない。Rapa Nui Journal中の別の論文の中で彼は11のタブレット中に似たような創造物語が存在することを特定したと主張した。その中では全てのものが「男性器の接尾辞」を持っていない。(作者強調)言いかえればたったひとつのタブレット以外男根を見ることはできない。
それでは私たちはいったいなにを知っているのだろう?
ほとんどなにも知らない。おそらく私たちはほんのわずかしか残されていないタブレットに書かれている意味を知ることはないだろう。それでは私たちがはっきりしていることを見てみよう。
どのタブレットも(文字を)刻む前に準備されたものだ。おそらく貝か黒曜石の歯の斧で刻まれた浅く長い溝。それは10 mm〜15 mmの幅がありCatherineとMichel Orliacの素晴らしい小さな本のpp.64-65にはっきり見ることができる。文字はおそらく口頭伝承にあるように鮫の歯や黒曜石によって刻まれたのであろう。
二十一のタブレットが現存し、そのうち三つがほとんど同じ象形文字の文章を持っている。「Tahua」もしくは「オール」と呼ばれるタブレットのうち四分の一といった一部分のテキストが、とても変わったそして碑銘のように書かれている。このタブレットはヨーロッパトリネコの木でできているオールであって、二世紀前の英国海軍が使っていた。十八世紀の初めから遅くとも十九世紀の終わりまでのものである。そしてそのときには読み書きできるイースター島人がいたに違いない。なぜなら「オール」タブレットは単なるコピーではないからだ。それは始まりの部分を除き他の失われた文章や、他の三つのタブレットで見つかった文章をダイジェストした編集のようであるから。("On a Fragment of the Tahua Tablet" in the Journal of the Polynesian Society, December 1985(7)を見よ。)
人間の形をしている象形文字が圧倒的大多数をしめる。こちらを向いている文字はとても少なく、さもなくば横を向いている。手をぶらぶらさせて立っているもの、足を伸ばして座っているもの、組んでいるもの。手は上や下や口の方に向けられている。棒や盾やとげのあるひもを持っているものもある。二つの飛び出た目を持つもの。(耳か髪を巻いたものかもしれない。)三つの毛が巨大な曲がった鼻にかかっているもの。鳥の体を持つもの。筆記は漫画のようだ。同じ人間が姿勢をわずかに変えて繰り返されるのを確認できると思う。あるタブレット上では同じ人間が三つの連続する姿勢で現れる。横向きに座りコマで遊んでいるように見える。またはろくろを回す陶工であろうか?もしくは貝殻でビーズを作るドリルを持った宝石細工人であろうか?
他にも動物の形をしたものが多いが、中でも鳥が特に多く、魚やトカゲは少なくなる。最もしばしば見られるのはグンカンドリであって、それは偶然にもMake-Makeという最高神と結びついた崇拝の対象である。
同じ文章がでてくるタブレットを比べたり、記号が繰り返されるグループを分析してみると、筆記は規則に従っているということに気が付く。筆記者は次の文字と結びつけることができたが、何でもいいという事ではない。あなたは立って腕をぶら下げている人物でも、手に何かを持っている人を文字の後に続けてもいいわけだ。あなたは単純な文字(足、三日月)を次の記号と別々に彫ってもいいし、また90度回転させて、次の文字をその上に刻むこともできた。
いつの日か我々に解読できそうなものとして、「Mamari」と呼ばれるタブレットの2,3行の文章がある。見ると分かるようにそれは月齢と関係がある。私たちはイースター島のいくつかの異なった古代太陰暦カレンダーを持っている。最も興味深いのはWilliam Thomsonが1886年に採取したもので、American National Museum in 1889, in a monograph "Te Pito te Henua, or Easter Island"に報告されている。Thomsonに感謝しつつ、私たちは例えば「Te Pito」とよばれる夜が1889年11月27日であることを知っている。1886年の年鑑や天文ソフトを使って彼の作った表と彼のイースター島滞在中の実際の月相をつきあわせて、この比較がカレンダーの象形文字の解読の鍵となる。("The lunar calendar of Tablet Mamari", Journal de la Societe de Oceanistes, Paris(8)を見よ。)Thomsonは暦年と一致させるときに月の名前も採取した。なんたる幸運であろう、1885年〜1886年はイースター島の伝統的暦では13ヶ月あるのだ。他の著者は12ヶ月しか報告していない。1885年〜1886年の月相を計算することで私たちは古代のカレンダーを復元し、いつ余分の月(専門用語では閏月という。)を挿入すべきか、実際にうまく行った。("A propos des mois de l'ancien calendrier pascuan", Societe de Oceanistes, Paris, 1992を見よ。)いつの日かおそらく誰かがタブレット中の月を表す象形文字を発見しそれはこの13ヶ月の閏月がいつ挿入されるかを決定することになるだろう。
私は今までいくつかの解読の失敗を紹介してきた。多くの人はイースター島の象形文字をインドからアンデスまで(どこでもいいが)消え去った文明の文字の生き写しであり、イースター島人を彼らの子孫であるといってきた。第一に、これは間違いである。イースター島の象形文字は世界中で独立した個別の、そして唯一のものである。第二に、これは全く愚かなことである。「立っている人」、「魚」、「棒」、「弓」、「矢」は百万もの違った描き方はない。四歳の子供に「棒を持った男」を書いてもらい、イースター島の象形文字と比べてみるといい。あなたはきっとそのうち2,3のものが「棒を持った男」とそっくりなのに気づくであろう。これはその子供が古代イースター島人の子孫であることを示すのかい?
About the author:
Jacques Guy studied Chinese, Japanese and Tahitian at the Ecole Nationale des Langues Orientales Vivantes in Paris and obtained a Ph.D. in linguistics from the Australian National University in Canberra on a then unknown language of Espiritu Santo. Having long redirected his interests to computer science and statistics he has now been for more than ten years a senior scientist in artifical intelligence with the Research Laboratories of Telstra (TELecom auSTRAlia). His main lines of interest are the processing and analysis of raw data considered as a corpus of texts of unknown meaning in an unknown language, and the quantitative properties of information and its transmission. |
(1)Barthel, Thomas S., 1958. Grundlagen zur Entzifferung der Osterinselschrift. Abhandlungen aus dem Gebiet der Auslandskunde 64, Reihe B, vol. 36. Hamburg: Cram, de Gruyter & Co.
(2)Orliac, Catherine and Michel Orliac, 1988. Des dieux regardent les 騁oiles: Les derniers secrets de l'le de P穢ues. Paris: Gallimard.
(3)Barthel, Thomas S., 1958. Talking Boards of Easter Island. Scientific American 198 (June 1958): 61-8.
(4)Mulloy, William T., Arne Skjlsvold, and Carlyle Smith, 1964. Easter Island: Reply to Barthel's Review. American Anthropologist 66: 148-9
(5)Fischer, Steven Roger, 1995. Preliminary Evidence for Cosmogonic Texts in Rapanui's Rongorongo Inscriptions. Journal of the Polynesian Society 104: 303-21
(6)Bahn, Paul G., 1996. Making Sence of Rongorongo. Nature 379: 204-5
(7)Guy, Jacques B. M., 1985. On a Fragment of the 典ahua Tablet. Journal of the Polynesian Society 94: 367-88.
(8)Guy, Jacques B. M., 1990. The Lunar Calendar of Tablet Mamari. Journal de la Soci騁 des Oc饌nistes 91: 135-49.