第三章
聖杯の物語
さまざまな容器
12世紀、13世紀初頭には、アーサー王と騎士についてのロマンチックな物語のレパートリーで王や、伯爵、小貴族を楽しませたプロの語り手階級が存在しました。アーサー王の名声はアンティオキアやパレスチナの十字軍の間に広まっていたとの証言があります。
聖杯物語の異なる版における物語構造や出来事・人物の一貫性の欠如は、自然な結果です。つまり物語りの起源は分離した、大小の独立した部分からなり、それらは礼儀正しく座って聞いていられる1、2時間を考えた工夫である。
内部・外部の証拠をあわせると、12,13世紀初期の物語の部分は主に、アングロサクソンの侵入によって5,6世紀にブリトンからアルモリカ、現在のブルターニュ地方に移住してきたブリトン人の子孫のものです。大陸の隣人との交流の中で、彼らはウェールズ語に似た彼らの言語とフランス語のバイリンガルを形成し、今日でも東ブルターニュにいる子孫はバイリンガルのままです。ノルマン人の詩人ウェースは1155年に
多くの円卓の物語がブリトン人によって語られていたと言っています。
土地を失ってから600年経ったあとも、ブリトン人はアーサー王は生きていて、救世主として戻り、先祖の土地を取り返してくれるとの希望をもっていました。ブルターニュではこの信念を疑うものは、投石の危険にあいました。
- Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian
Symbol
ケルトの神話を通して、治癒と食物を与える魔力を持った聖杯と大釜の例がある。その大釜はアイルランドの神族トゥアハ・デ・ダンアーンによってアイルランドに与えられた7つの贈り物のうちの一つです。最も明らかな容器の例は、ブランの大釜です。この大釜に投げ込まれた死んだ戦士は復活します。それは語り手によれば、それは食物を永遠に供給しました。クレチアンによると、聖杯王はボロン(ウェールズ語ではブラン)と呼ばれました。
しかしケルト人は、この生命力を持つ聖杯の唯一の使用者からは程遠い。そのような容器はギリシャでも見られ、例えばゼウスを育てた食物が溢れ出す豊穣の角。インドではヨーニ、エジプト、ロシア、他のどんな文化においてもみられる。ヘルメス主義者や錬金術師たちはカップは水の要素の象徴であり、特に純粋な女性の受容原理。つまりカップの形と機能は膣に似ています。それは男性の種の容器です。女性は新しい生命の源です。それでカップ、器、杯は豊穣の、新しい生命の象徴となりました。
-J.J. Collins, "Sangraal, The Mystery of the Holy Grail"
クレチアン・ド・トロワ
聖杯そのものはクレチアン・ド・トロワの長編叙述詩『Le Conte du Graal』に初めて登場しました。書かれたのは12世紀の終わりの25年です。(1182年に未完のまま残されました。)
-Baigent & Leigh, The Temple and the Lodge
我々は、当時まだ有名でなかったクレチアンが初期の作品 『Erec』中で姓をde
Troiesとしていたことから、フランスのパリの東にあるトロワの町で生まれたと考えます。同時に彼が使用していた方言も西シャンパーニュ地方のものであることからもこれを想定することができます。我々は彼が幼少期どこで過ごしたかは分かりませんが、彼の高い教育からも、彼はよく育てられたに違いありません。彼はシャンパーニュ伯ヘンリー1世の宮廷に仕えるようになったとき、すでに詩人でした。そこで1164年から1173年のあいだにマリー伯爵夫人に『Lancelot』を書きました。後に彼は故郷を去り、フランダースのフィリップ伯爵に仕えました。そこでパルチヴァールを書きましたが、1174年よりも後のことでしょう。彼は1190年に『Conte
du Graal』を未完のまま死にました。
-Johannes and Peter Fiebag, The Discovery of the Grail
『Le Conte du Graal』はアーサー王の物語で、パルチヴァールの若い騎士の物語に関連しています。
パルチヴァールの物語の初めは、父親の戦闘での負傷と、パルチヴァールが女性に森の中で育てられ、槍の腕前を持ち、王の宮廷への旅立ちから始まります。彼の母親に会うために帰郷の旅の途中で、パルチヴァールは素晴らしい城に偶然出会います。そこで彼は使用人によって迎え入れられ、ハンサムであるが、病気で立ち上がることが困難な貴族に歓迎されます。彼はパルチヴァールに豪華に飾られた剣を与え、彼を英雄として扱います。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian
Symbol
不思議には思いましたが、彼の主君であり教師であるGornemantが彼におしゃべりを禁止したので、若者は槍についての質問することを抑えます。このとき、燭台を持った二人の従者のあとを一人の美しい女の子が手に聖杯をもってやってきます。
「グラール」という言葉は古フランス語の「gradale(ラテン語はgradalis)」から来ていて、その意味は「大きく、中空の器」でそこからはおいしい食物が出てくる。クレチアンの時代、gradaleはしばしばグラールと発音された。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
Floidmontの修道院長Helinandの人生は詩人とも重 なり、1215年に書いたもので、グラールという単語を「広く少し深い器で、そこからはご馳走が習慣的に金持ちたちに提供される」と定義しました。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
フランス語で「gradalis」または「gradale」は広く浅いボールを意味し、その中にはソースと一緒に金持ちに対して、徐々に一切れずつ様々なアレンジで贅沢な食物が提供される。一般的には「graalz」としても知られ、なぜならそれを食べる人たちに、または魅力的な見た目で、それは金や銀またはその中身自体であり、言い換えればたくさんのおいしい食べ物のアレンジメントが楽しい(grata)だから。
クレチアンの詩の初めの継承者は、グラールの上に百匹のイノシシの頭が乗っていた事を記述している。もしグラールが杯ならば、これはありえないことだ。
聖杯はただ一片のウェハースが入る程度の運び手が手に持つ杯ではなく、鮭が十分載る位のもう少し深い皿を想像すべきでしょう。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
パルチヴァールが質問したはずの疑問の一つは異教のモチーフであり、「誰がグラールに仕えますか?」と同じ質問はアイルランドの『The
Phantom's Frenzy』の物語の中に知られ、16世紀の写本しか存在しないが、11世紀には成立していた。
-Richard Cavendish, "Grail", Man, Myth & Magic, An Illustrated
Encyclopedia of the Supernatural, Vol. 9
クレチアンの話に戻ると、パルチヴァールの前に、鹿の尻肉のペッパーステーキのご馳走が用意されて始まった。彼の前をグラールが通り過ぎて、それぞれのコースが給仕されていくのを見ているとき、誰が用意しているのか知りたかったけども、知ることができなかった。おいしい食物やワインがテーブルに豪勢に運ばれてきました。食べ物は素晴らしく、王や伯爵、皇帝が日常としている全てのコースがその夜、若い貴族に提
供されました。
パルチヴァールは彼の教師への誓いを守り、食事中グラールについて尋ねることを止めました。その後彼は寝室へ案内され、夜明けまでぐっすり眠ります。パルチヴァールは目覚めると、彼と馬以外城は蛻けの殻であることを知ります。彼は森の抜け、頭のない騎士を握り締め、嘆き悲しむ少女に出会います。パルチヴァールは彼女から、その城のミステリアスな主人であるFisher
Kingの身元について教えられます。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
彼が王であることは私が保証します。しかし彼は戦で傷つき、両腿に槍を貫かれ、自ら歩くことはできなくなってしまった。
-Chretien de Troyes, Le Conte du Graal
私はアイルランドでブランと一緒にいたときでした。私は腿が傷つけられたのを見ました。
-Old poem in the Book of Taliesin
さらにパルチヴァールに質問して、彼女は出血をする槍と、聖杯について尋ねなかったことに対して彼を叱りました。
ああ、不幸なパルチヴァール。あなたがこれらのことを尋ねなかったことはなんて不幸なことなのでしょう。なぜならあなたは王の不自由な体を直し、手足を自由に使えるようにできたでしょう。そして彼は国を支配し、大きな善が訪れたことでしょう。しかし今あなたはあなた自身と他の人々に不幸が訪れることを知るのです。
クレチアンの話を続けて、Loathly Damselはパルチヴァールを、槍や聖杯について尋ねず沈黙し、Fisher王を治さなかったことを非難します。彼女は言います。結果として、続く不幸はパルチヴァールに責任があります。
あなたはもし王が領土を持たず、怪我が癒されないならどうなるかを知らないでしょう。婦人たちは夫を失い、国は荒廃し、少女、孤児、多くの騎士たちが死ぬでしょう。これら全ての災難はあなたのせいで起こるでしょう。
しかしパルチヴァールは語りました。 さもなければ彼が誰が聖杯を提供するのか知るまで、そして出血する槍を見つけるまで、そしてなぜそれが出血するのか真の理由を知るときまで、今後同じ宿に二人の騎士と泊まらないこと、または彼が聞いた奇妙な道を避けないこと、または他人より優れていると自称する騎士との交戦を避けないことを誓った。彼は苦難によって探求をあきらめることはないでしょう。そしてたとえそこが危険な土地であったとしても、50の誓いを1つずつどんな冒険も、彼が聞いた不思議な話を探求するときも失敗することはないでしょう。
時が過ぎるにつれ、パルチヴァールは神を忘れていた記憶を失っていました。しかし騎士道の探求は続き、アーサー王のもとに60名の著名な騎士の捕虜を届けました。パルチヴァールはキリストの恩寵を知り、そして罪を告白するために隠者を探し出します。彼を見つけたとき、隠者はFisher王はパルチヴァールのおじであることを教えます。隠者は城で起こった奇跡について、パルチヴァールによる失敗が原因であると説明します。
槍により出血し、それは止まらないが、理由を聞かなかったとき、罪はあなたの舌を切断しました。まったく愚かなことにあなたは誰に聖杯を運んだかを知らなかった。それは私の兄であり、彼の姉であり、私のはあなたの母親であった。そして信じて欲しいが、Fisherは王の息子であり、したがって聖杯を提供されたのだ。しかし父はマスやウナギや鮭を出したことはないと思う。聖人は命をミサのウェハースだけで維持している。聖杯はとても神聖であり、彼自身も精神的であるので、聖杯から出されるウェハースだけで十分である。彼はしたがって、あなたが聖杯を見た部屋から15年も出ていない。
聖杯の原型に近い、リダーチの皿を含むリストがあり、またそれを望むとき飲み物や食べ物が手に入るブランの角という飲料用の器も含まれます。この奇跡を起こす角の起源を聖杯物語のなかに探すとがっかりします。その代わりキリストの聖体、ミサのウェハースに皿と密接な働きを発見し驚きます。古フランス語では「角」と「体」の主格は「il
cors」と同じです。『Conte del Graal』の最初の継承では、corsの使用例として、両方の意味があり、写本によれば一つの例は魔法の角に言及し、「祝福された」という意味のBeneizまたはBeneoizの名を生んだ。
現在フランスでは神聖な飲料の角は知られてはいないが、クレチアンの時代、彼らは聖なる食物としてキリストの聖体が知られていた。Caesarius
of Heisterbackはキリストの聖体によって命を助けられた女性の話を記述する。1180年代、年代記編者Guillaume
de Nangisは他の食物を受け付けなくなった、麻痺した牛飼い女の話をし、同様聖体によって命を助けられた。もしクレチアンがトロワの近くに住んでいたら、彼はこのうわさを容易に聞いたことだろう。『Quest
del Saint Graal』の中で、我々は400歳まで生きたabbey king Mordrainの中にパルチヴァールを発見します。その生涯で彼は司教がミサまで昇華させた見たこともない食物を食べ、これはキリストの聖体(cors)である。
-Roger Sherman Loomis, The Grail, From Celtic Myth to Christian Symbol
パルチバールは隠者のところに2日滞在し、二人は一緒にパルチヴァールが信仰を再び見つけることができるよう祈る。これがクレチアンの未完の詩のなかで最後にパルチヴァールと聖杯が語られるところである。ウォルフラムによるとパルチヴァールの孫は白鳥の騎士ロヘラングリンと特定され、この主題はワグナーのオペラ Lohengrinである。伝説によるとロヘラングリンは第一回十字軍の指導者ゴドフロワ・ド・ブイヨンの祖父である。
クレチアンの源
クレチアンは貴族の中の貴族であるシャンパーニュ伯爵およびフランダース伯爵の保護の下にあった。これらの貴族はお互いに密接に関連しており、カタリ派の異端思想で結びついていました。両家ともテンプル騎士団とも密接に関わっていました。
-Baigent & Leigh, The Temple and the Lodge
クレチアンは他の聖杯詩人と同じく、パトロンであるシャンパーニュ伯爵と一緒に作品を書きました。シャンパーニュ伯の家臣であるテンプル騎士団の創設者[ユーグ・ド・パイヤン]だけでなく、伯爵自らも1124年にはテンプル騎士団となった。フランダース伯爵はクレチアンの物語の情報提供者であり、シャンパーニュ伯爵とも密接なつながりがあり、そしてヴォルフラムによるとアンジュー家は秘密の聖杯を持ち、彼らもまたテンプル騎士団であった。
クレチアン自身の説明によると、彼が初めて聖杯物語を教えられたのは、フランダース伯爵からであり、彼がクレチアンに詩版を書くように頼んだ。彼に提示された物語はアプレイウスの『Metamorphoses』の一部分「イシスの書」から取られた可能性が高い。この「イシスの書」はクレチアンの聖杯物語と多くの類似関係があり、そこには衰弱した王、老いた王を若返らせる槍と杯が含まれる。
-J.J. Collins, “Sangraal, The Mystery of the Holy Grail”
カタリ派は先行するマニ教と同じく、啓蒙された救済者のような意味で「未亡人の息子」と呼ばれ
る「完全な人」の存在を信じていた。その用語は聖杯物語の中でパルチバールが用いています。
-J.J. Collins, “Sangraal, The Mystery of the Holy Grail”
聖餅に言及以外に、クレチアンはキリスト教とのつながりを明確にはしていない。(グラールが「聖なる物」であるという理解すらない。それは旧約、新約聖書で容易に想像がつくのだが。)ヴォルフラムのようなフランスの詩人はキリストの血や、その容器が聖遺物であるということにまったく言及していません。
-Graham Hancock, The Sign and the Seal
クレチアンの死後、他の著者が聖杯伝説に目を向け、異教の物語はだんだんキリスト教化されていきました。クレチアンの『Conte』はそれぞれ別の4つの続編が書かれました。初めの続編は(おそらく1200年以前だが)ゴーウィンは「豊饒の杯」が自在に動き回り、ご馳走を振舞い、ワインに満たされているカップとした。城の主はその槍が、ローマ兵が十字架の上のキリストを貫いた聖槍(直ちにすぐに血と水がでてきた。ヨハネ
19:34)であると説明した。ゴーウィンはまた彼が以前城で見た折れた剣は、Logres王国(イギリス)全土を破壊したものであると語ります。
-Richard Cavendish, “Grail”, Man, Myth & Magic, An Illustrated
Encyclopedia of the Supernatural, Vol. 9
第一章:テンプル騎士団の創設
第二章:聖杯の騎士 第三章:聖杯の物語 第四章:テンプル騎士団のミステリー 第五章:テンプル騎士団の最後 第六章:テンプル騎士団の痕跡 |