テンプル 騎士団−聖杯伝説

第六章

テンプル騎士団の痕跡


テンプル騎士団の勢力範囲は中東〜西ヨーロッパまで広く及びました。すでに何百年も前のことですので、それほど多くの痕跡が残されているわけでもないですが、南フランスでは割合多くの痕跡が残されています。フランス留学中にいくつかの遺跡を訪れましたので、紹介します。写真は実際に訪問して、私が撮影してきたものです。

13世紀中葉、英国の年代記者マチュー・パリは「テンプル騎士団はキリスト教国に9,000カ所の館を所有し、一方ホスピタル騎士団は19,000を数える」と記している。
  - Alain Demurger, Les Templiers 

以下1〜4は次のようなコースで、自転車で旅しました。
ベジエからミヨー行きの電車が一日数往復ありますので、途中のMontpaon(モンパオン)で下車。それから1→2→3→4の順で行き、4に一泊してまた同じ場所に戻ってきました。
コース自体は片道70km位だったような気がします。観光してたら1日で往復は無理でしょう。あと、ラルザックは本当にど田舎でお店も何もありませんのでお気をつけください。

(1) ヴィアラ・パ・デ・ジョー

ヴィアラ・パ・デ・ジョーはテンプル騎士団の古い施設であり、今日では主に、1430年に建てられた大きな高い塔およびそれより先にあった家がその横にある。その両方とも改修され、景色の良い屋上に登ることができる。
  - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers
 

(2) サント・ユラリ・ド・セルノン

 サント・ユラリ・ド・セルノンはクーベルトワラードほど有名ではないが、それでもラルザックの大コマンダリーであり、遠くにある多くのテンプル騎士団(後にはホスピタル騎士団)の土地を結んでいた。二つの騎士団の足跡は、ここでははっきりとしている。ここもまた、家屋改修の第三段階がある。12世紀の教会の周りを囲むような村、12世紀のテンプル騎士団による新しい教会と城の建築、そして15世紀のホスピタル騎士団による高い城砦の建築である。もしサント・ユラリ・ド・セルノンがテンプル騎士団の強大なコマンダリーであったのなら、それはとても早く、多くの寄進の結果であっただろう。サント・ギェム・ル・デゼール修道院のレーモンは1153年に最初の教会を年80ソル・メルゴリエンの代金とチーズ6個でテンプル騎士団に寄進した。それから、ルヴェルグの領主、ローデーズの司教、コンク修道院の司教たちからの寄進が押し寄せた。土地の購入または交換という投機によって、テンプル騎士団はラルザックの台地の広い部分の領主となった。これは同時に大きな反感を生むことにもなった。
 サント・ユラリ・ド・セルノンは、フランス革命の時期に分割して売られた結果として、改変があったにもかかわらず、今日でも統一した印象を与えている。ホスピタル騎士団による台形の塔は前存の空間を守るように設計され、そこには今でも教会(テンプル騎士団によって建てられた。その教会の後陣は墓地になっている)、食堂、そして製鉄所、羊小屋、牛小屋、馬小屋、納屋からなる田舎の建物を見ることができる。17世紀には、ホスピタル騎士団が新たな仕事を実行した。家畜に必要な水源を確保(しかしテンプル騎士団はすでにサント・ユラリに、台地の足下に噴出する水を導水していた)し、塔の階層の部屋と壁画を作った。
  - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers
 

 

(3) カヴァリエ

 外壁といくつかの塔からなる昔の城壁の痕跡は印象的である。
 テンプル騎士団は、12世紀の中頃、ここに領地を得て、1154年頃に教会とその近くに防御のある家(現存していない)を建てた。他の場所と同様、カヴァリエの城壁はテンプル騎士団の廃止後、ホスピタル騎士団によって100年戦争の危機に際して作られたことを言っておく。カヴァリエでのホスピタル騎士団の荘園の建築はおそらく、17世紀中頃であり、切妻壁(山形の屋根の側面の壁の三角形)の家や、上品な柱頭を村の中心にある今の教会の正面に見ることができる。近年になってまとまった改修が行われ、完成しつつあり、最大限の努力で15世紀の景観を回復するように求められた。にもかかわらず、改修は16世紀の宗教戦争のものとなってしまった。
 - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers
 

(4) クーベルトワラード

 クーベルトワラードはラルザックの中で、最初に元の姿に戻す価値のある場所であり、すでに30年が過ぎた。駐車場では張り出している斜面を登る時間を取ると良い。そこでは村、城壁、塔といったテンプル騎士団の城の格別な景色を、村の上に同時に見ることができるだろう。右側には、もう一つ別の丘の上に14世紀までさかのぼる風車の羽を見ることができる。クーベルトワラードはテンプル騎士団が1249年に創設した村で、その城下には村が発展した。しかし彼らの定住以前に、近くのナントの修道院に属する教会があった。テンプル騎士団はクーベルトワラードで小麦の栽培を進め、聖地に送るための馬の飼育、羊毛、乳、肉を取るための羊を飼育した。この施設は、1181年のリシャール・ド・モンパオンとブレンギエ・ド・モルナーという二人の領主の寄進から始まった。要塞化は1439年、ホスピタル騎士団によって開始された。チャペルは城と向き合うように配置され、おそらく14世紀に建てられた。城とチャペルの間には城壁を削り、小さな中世の墓地がある。丸い石碑(複製)の存在に気づくだろう。
  - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers
 
 

正面入り口

村の裏側の入り口

 

テンプル騎士の墓

城の一部を利用したホテル

 

村の全景。奥の丘の上には風車が見える。

(5) モンペリエ

 テンプル騎士団およびホスピタル騎士団の痕跡は、モンペリエには多く残されていないが、いくつかの通りの名前にはその記憶が残されている。このときの領地の存在を証明することはできないが、ホスピタル騎士団への最初の寄進は1145年にさかのぼる。
  - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers


モンペリエのPlan-d'Agde通りにあるホスピタル騎士団の墓地の入り口の痕跡
 

テンプル騎士団のものとされる井戸(鉄格子の中に井戸の穴がありました。)

テンプル騎士の井戸通り

(6) シャトー・ブランシュフォール
 ラングドックにあるテンプル騎士団の城。現在は遺跡の痕跡が残るのみ。
場所は、レンヌ・ル・シャトーとレンヌ・ル・バンの中間地点にある深い山の山頂らしい。
 
 

レンヌ・ル・バンから登る道がありました。
Google Mapにも道が載っていましたので、気軽な気持ちで出かけました。

一応山道があります。

 
 

ここを右という看板があるのだけど、この先道なんてない。
この後2時間位さまよい、フランスで遭難したらしゃれにならん
ということで今回は到達できず、引き返す。

ブランシュフォール城の場所は、この写真の右端の岩山の上らしいが、
本気出して、GPSとか持って行かないと到達不能。


Ben Hammottという人が登って撮影した写真。彼によると城跡などなく、せいぜい小さな見張り塔があっただけらしい。

(7) リムー
 リムーの村それ自体に多くのロマネスク様式、ゴシック様式の教会があり、絵のような路地は中世の家に囲まれている。そして博物館や有名な春のカーニバルがあり、訪れる価値が十分ある。ジョルジュ・キエス氏によれば、テンプル騎士団はある時期、ノートル・ダム・ド・マルセイユ教会、その近くの城、橋の近くの家を所有していた。
 - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers

(8) アルク
 テンプル騎士団はこの要塞(それはおそらく西ゴート時代から存在していた)を1148年、カルカソンヌ副伯の寄進という厚意によって手に入れた。
 - Sur les traces des Templiers et des Hospitaliers

 

(9) ジゾール

ジゾールはテンプル騎士団の歴史および神話の中のある部分を占める。1158年、テンプル騎士団はVexinの3つの要塞(ジゾール、ヌフシャテル、ヌーフル。ヌーフル・セイント・マーティンとして村が残っている。)を、英国皇太子アンリとマルゲリータ・ド・フランスの婚約の持参金として受け取った。テンプル騎士団はそこを7年間所有し、その後は英国の所有に戻された。テンプル騎士団が1307年に消滅した後、ジゾールはブールグールトのテンプル騎士の監獄として使われた。テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーも1314年3月に処刑される直前の短い間、そこに拘留されていた。1962年にジゾールのことが大々的に話題になった。城のガイドロジェ・ロモイは塔を支える土塊の下を秘密裏に発掘したことを打ち明けた。彼の話によると、1946年3月、彼は地下の大きな祭室を発見し、そこには彫像、19の石棺、30の箱があった。伝説のテンプル騎士団の財宝である。(テンプル騎士団の裁判の時、ジャン・ド・シャロンという騎士が、逮捕の前夜、パリのタンプルを3台の荷車が離れたことを証言した。)ロモイはこの話をジェラール・ド・セードに語り、彼はすぐに、1962年にこれを出版した。今では有名な『Les Templiers sont parmi nous(テンプル騎士団は私たちの中にいる)』である。大臣アンドレ・マルノーは発掘を始めたが、公式発表では何の成果もなかった。ロモイは嘘をついていたのか?謎は手つかずのまま残されている。特筆すべきは、第二次世界大戦中の爆撃によって、ジゾールあるいくつかの地下道の存在が明らかとなった。そのうちの一つが城と、美しい聖ジェルベ教会と聖プロテ教会(12-16世紀)を結んでいる。要塞を訪れた時は、牢獄に描かれた落書きを見逃してはならない。そのいくつかはテンプル騎士団の時代までさかのぼるものである。(それを秘密のメッセージ、財宝の鍵であると考える人もいる。)
 - Jean-Luc Aubarbier et Michel Binet, Les sites templiers de france

(10) ツール・ド・フランス

自転車好きなので、ツール・ド・フランスを見ているのですが、沿道にお城があるとヘリで上空から映し、きちんと解説もしてくれます。
フランスの田舎の風景は世界で一番美しいと思う。

ああ、お金あったらツールの観戦と、残存するコマンドリーを見て回りたい。


第一章:テンプル騎士団の創設
第二章:聖杯の騎士
第三章:聖杯の物語
第四章:テンプル騎士団のミステリー
第五章:テンプル騎士団の最後
第六章:テンプル騎士団の痕跡
戻る